不完全な夫婦生活
1779年 ルブラン作

王妃が贅沢と浪費する行為には理由の1つとして、国王ルイ16世との正式な夫婦関係を築けなかった事であった。

ルイ16世には肉体的欠陥(包茎)があって、7年間、王妃を処女のままに放置していた。
この事が王妃の精神的成長に及ぼした影響は大きく、夜の寝室て虚しい刺激を受けるだけで、1度も満足させられた事のない屈辱を長年に渡って感じて来た結果からであった。

結婚後、7年間の性的欲求不満と虚しさと屈辱感が王妃の異常な活発さ、落ち着きの無さ、次々と快楽を追う苛立ち、同性への盲愛、貴族達への媚態、度外れなお洒落と浪費などの特性を身に付けてしまった。

王妃にとって、夫婦のベッドは屈辱を耐え忍ぶ場所と化していた。
その為に出来るだけ、夫と寝る事を避けるようになる。
王妃は国王が眠ると陽気な取り巻き仲間と共にパリへと出掛ける。
そして、オペラや舞踏会など楽しい時間を過ごした後、明け方になって宮殿に戻るという生活を続けた。

一方、国王の道楽といえば、錠前作りと狩猟をする事。
専用の鍛冶場で黙々と槌を振って、獣を追って森を駆け抜ける事が何よりの幸福であった。

享楽的で派手好きな王妃とは趣味が合わず、妻に対して、男としての引け目を感じて頭が上がらない。
生まれつき鈍感で不器用、優柔不断、睡眠と食欲を必要として、繊細で敏感な気質とは縁がなない、のんびりした性格だった。

また、国王の弟アルトア伯の妃が健康な男児を出産した事は、マリーアントワネットに大きなショックを与えた。
そして、それ以上に屈辱だったのは出産の場に立ち会って、その瞬間を目撃しなければならない事だった。

赤子が無事に生まれて、男児だと告げられたアルトア伯夫妻は歓喜した。
王妃は夫妻の様子を黙って見ているしかなかった。
そして、全てが済んで王妃が部屋から退出してもやかましい市場の女達から集中攻撃を浴びた。
去り行く王妃に女達は「アンタは、いつ世継ぎを産んでくれるんだい?」と野次を飛ばした。

王妃は落ち着いた態度で威厳を保ち、表面的には顔色一つ変えなかったが、自室に戻って カンパン夫人と二人きりになると激しく泣いた。

そして、既に辛辣かつ下品な諷刺に溢れた小冊子が世間に流行して『宮廷便り』と題されて、哀れな王妃の嘆きとして「王様は出来るのか?出来ないのか?」という、からかい文句が繰り返し記されていた。

王妃は憤慨の涙を流して、侍女のランバル公妃は王妃の性器を指で慰めて、性的欲求不満を解消してあげた。
ここから王妃のレズビアンの噂が流れ始めた。

マリア・テレジアは、『わが娘は、世継ぎを産まなければならないが種は何処から来ようが、大した問題ではない』と、娘に愛人を薦めたという。

メルシー伯は、マリア・テレジアに「今、この瞬間に王妃の立場がいかに輝かしくとも、国の為に世継ぎを産まない限り、その地位は固まらない。
王妃には、この短気で軽薄な国民から、フランスそのものの象徴する母親らしい資質が必要だった。
さもないと、フランス国民は彼女の威光を恨めしく思うだろう」
と書き送った。

王妃の兄ヨーゼフ2世は、弟のレオポルトに妹について書き送った。
「彼女は、妻としての役割も王妃としての役割もしかるべき仕方で果たしておりません。
それというのも、妻としては彼女は国王を完全にないがしろにしているのですから。
王妃としては、彼女のいかなる作法にも縛られず、国王と連れ立たずに少人数の連れと共に威厳のある衣裳を付けずに出て歩き、駆け回るのです」


1777年
王妃の兄ヨーゼフ2世は、ウィーンから妹の暮らすヴェルサイユへ赴き、思慮に欠けた軽佻浮薄な行動を慎むように忠告して手紙を渡した。
「貴女は、このフランスで一体、何をしているのですか?
国王の伴侶という以外に一体、どんな権利があって、人に敬われ、栄誉を受けているのですか?
夫に対して冷淡で退屈そうで、嫌悪感さえ表さなかったですか?
真面目な読書に勤しむ時間にパリのオペラ座での舞踏会、森での競馬にうつつを抜かしていませんでしたか?
より良い人生について反省する時間です。
時間は幾ら費やしても構いません。
貴女だって歳をとるから、いつまでも若さを言い訳には出来ません。
その時、貴女はどうなるのでしょうか?
不幸せな女になり、更に不幸な王女となるだけですよ」


そして又、国王に夫婦生活の助言と外科手術を勧めた。
しかし、国王が外科手術をしたという事実はない。

ヨーゼフ2世が弟のレオポルトに宛てた手紙によると「国王の性器は力強く、完全な包茎ではなく、満足できる状態で勃起できる。
それを挿入し、全く動かずに2分ほど留まった後、射精なしで、まだ勃起したまま引き抜く。
そして、お休みと言って寝てしまう。
そのくせたまに夢精をする事もあるというのだから信じがたい話だ。
ただ挿入して事を行っている間は、全く射精できない。
それでも国王は自分の行動に満足している。
国王は、これを完全な義務として行い、快感だと思った事は1度も無いという」


王妃も性的欲求が希薄な為にベットで夫を先導する事が出来ない淡白な女性だった。
要するに2人共、野暮天で国王は肉体的に悪い部分もなく、あえてする必要がないという気持ち(怠惰)と無関心と不手際だけが問題だった。

1776年
パリ市立病院の外科医は「包茎手術は不必要」と断言した為、手術は行われていない。
麻酔が無かった当時、手術を行えば痛みを伴い数週間の安静が必要。
その間、乗馬など出来ない筈だが国王の狩猟日記には、休止期間があった事は記されていない。

ヨーゼフ2世の助言もあってか、国王は結婚7年3ヶ月目に夫としての義務遂行を果たして、王妃の『不完全な夫』ではなくなった。
それは、国王の23歳の誕生日を迎える直前で、国王は「この楽しみは大好きです。
こんなに長い間、知らずにいたとは残念です」
と夫妻生活の喜びを叔母達に告白している。

そして、王妃は初めて夫が満足に義務を果たし終えた日の翌日、母テレジアに『私は生涯において、何よりも最大の幸福に浸っております。
最初の時よりもずっと完全になっています』
と特使で送り伝えた。

ところが、国王の義務が成し遂げられてから3ヶ月後には、再び王妃は夫婦の寝室から逃げ出して、フォンテーヌブロー宮やド・ゲメネ公爵邸に賭博をしに出掛けてしまう。

母テレジアには「国王は、2人で寝るのがお好きではない」と説明し、お気に入りの取り巻きには「私は、夫から7年間も寝室で尊敬されなかったのです。
女として、これほど大きな侮辱、寂しさがあるでしょうか。
これだけ忍耐させられて、今さら愛情が芽生えるでしょうか。
国王が誰かに一時的にかりそめの好き心を抱かれても、そこから一層の活力と精力を汲み取る事がお出来になりましょうから、私は苦痛にも不愉快にも思わない事でしょう」
と複雑な思いを述べている、王妃の夫への愛は既に冷め切っていた。

1778年12月19日
早朝、懐妊中の王妃の陣痛が始まった。
真夜中すぎ、最初の痛みが起きて、直ぐに宮中女官長のランバル公妃に伝えられた。

王妃の出産に立ち会える栄誉ある人々に連絡がいき、午前3時、シメイ公女が国王を呼びに行った。

王妃は、朝8時頃までは歩き回る事が出来たが、やがて寝室の暖炉と向かい合わせに置かれた白い小さな分娩用ベッドへと上った。
そして、ベッド周囲には、国王の他、王家の人々、公爵家、公女たちが集まって来て、王妃の公開分娩の様子を伺う事になる。

そして午前11時30分、無事に第1子マリーテレーズを出産した。

出産後、王妃は小さな娘に「可哀相な小さな女の子。
あなたは望まれた存在ではないけれど、それで私の愛情が少しでも減るものではない。
あなたは私のもの。
貴女の為に私は、脇目も振らずにお世話するわ。
あなたは私の幸せの一部であり、あなたは私の苦しみを癒してくれる」
と、ささやきながら、母親としての幸福を感じる事が出来た。

以後、1781年
第1王子ルイ・ジョゼフ

1785年
第2王子ルイ・シャルル(ルイ17世)

1786年
第2王女マリー・ソフィー・ベアトリス(早世)

世間知らずで享楽的な浪費家と批判された王妃も子供を授かってからは、子供たちに愛情を注ぎ入れて、夜遊び、賭博など一切止めて、浪費する事なく、良き母として享楽的な生活習慣を改めた。



日々、しきたりだらけの宮廷生活に不満を抱いていた王妃は、内輪だけで過ごせる最適な場所を欲していた。
そして、王妃付き女官長ノアイユ夫人の夫=ノアイユ伯爵は、「プチ・トリアノン離宮を王妃に与えては如何でしょう」と、国王に進言した。



プチ・トリアノン離宮はヴェルサイユ宮殿から、1キロ離れた庭園内にある簡素な離宮。
最初はルイ15世が寵姫ポンパドゥール夫人の為に建築家ガブリエルの手で施工されたが、ポンパドゥ−ル夫人亡き後に完成した。

国王は、「この別荘は、王妃の物です。
この美しい場所は、常に王の最愛の人の住まいでした」
と快く承諾して、1775年8月27日に正式にプチ・トリアノンを王妃の別荘にする事を許可した。

王妃は、このプチトリアノンを大変、気に入って、ルイ16世様式の家具でしつらえられた離宮で1777年-1789年まで過ごして行く。

王妃が庭園の草木を植える事に熱中して「森の楽園」作りに執着するあまり、人々は皮肉を込めてプチ・トリアノンを『小さなシェーンブルン』『小さなウィーン』と呼んで眉をひそめていた。

※王妃が植えた木々の多くは、1999年12月の激しい突風で倒れて、ヴェルサイユ全体で約2000本の樹木を失うも、大規模な修復工事で植え直された。

トリアノンに接した狩猟場に『王妃の村里』と呼ばれる王妃が皇女時代に過ごした自然溢れる故郷オ−ストリアを彷彿させる、素朴な田園風景を見事に再現して創りあげた。

このトリアノン離宮の主権は王妃。
ポリニャック伯夫人、王妹エリザベ−ト、女流画家のヴィジェ・ルブラン夫人など、王妃の限られたお気に入りの廷臣と側近達しか出入りを許されていなかった。
国王でさえも、招待されなければ、訪れる事は出来ず、国王の寝室がない事から、国王が一晩でも此で過ごす事はなかった。

王妃は、このトリアノンで舞踏会や芝居を演じて、庭園では子供たちと隠れんぼ、ボール投げ、ブランコ遊びなどして自由奔放に過ごした。

また、『王妃の村里』では山羊、羊、牛の家畜小屋を作り飼って、野菜を植えて、田舎娘の装いで農婦に興じた。

ローズ・ベルタンは、田園で過ごす王妃の為に袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザイン製作した。

そして、このスリップドレスを着て、素のままの表情をした王妃の姿を女流画家のルブラン夫人が公にせずに個人的な目的で肖像画として描き上げた。
その肖像画を見て、王妃は大変、気に入って肖像画をサロンに出品した。
しかし、他の王族からスリップドレスが下着姿に見えてしまい『王妃にあるまじき姿』と、批判を浴びて華やかなイギリス風の刺繍ドレスに描き換えられた。

また、一般公開はされていないが、王妃は庭園の一角に恋人フェルセンと2人だけで会う為の洞窟も造りあげている。
忍び愛は、王妃だけに限らず、多くの貴族達も同じように行っていた。

こうした生活の中で、王妃は気に入らない貴族達を無視して、王妃の寵愛に加われずにトリアノン離宮に招かれない貴族達は不満を募らせて行った。
こうした行為で王妃は、貴族達からの支持を失って、孤立を深めた。

反王妃の貴族達は、王妃と寵臣を非難して、彼らによって王妃を誹謗中傷するビラや冊子が捲かれて、国民の憎悪を掻き立てて行った。









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