皇女アントニア
『マリー・アントワネット』という名前は、元の名をフランス語に置き換えたもの。
本名は、ドイツ語名で『マリア・アントニア・ヨーゼファ・ヨアンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリゲン』

1755年11月2日
ポルトガルのリスボンで3万人以上の命を奪った世紀の大地震が起きた。

午後20時30分、ウィーンにあるホーフブルク宮殿『女王の居室』マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の15番目の最後の皇女として、マリア・アントニアは誕生した。





マリア・アントニアが誕生した11月2日は、『万霊節』と呼ばれる死者を祀る弔いの記念日。
カトリックの大きな祝日だった為に教会やチャペルは重々しい黒い布で覆われていた。

『死者を偲ぶ日に生まれた事は縁起が悪い』とされた為、皇女時代のアントニアの誕生日の祝宴は、前日の万聖節の夜に行われていた。

後にブルボン家で最初の侍女となった カンパン夫人は、アントニアと大地震について『宿命的な刻印のようだった』と回想録に記している。


女帝マリア・テレジアは16人の子供を出産して成人した子供は10人。
この為、アントニアは第9子と記述される事もある。

1756年5月1日
皇女アントニアが生まれて半年後、ヴェルサイユ条約によって、オーストリアはプロイセンに対する防衛の為に長年の仇敵だったフランスと同盟を結んだ。

プロイセンのフリードリヒ大王から、オーストリア帝国の領土を守る為に女帝マリア・テレジアと宰相カウニッツは、フランス国王ルイ15世の陰で実権を握っていた愛妾ポンパドゥール夫人に同盟話を持ちかけた。

マリア・テレジアと才色兼備のポンパドゥール夫人は、反プロイセンで利害が一致して曲折の末、ヨーロッパを震撼させた両大国の同盟が結ばれた事で、前年に生まれたばかりの皇女アントニアの悲劇を辿る運命は、この時点で決まった。

マリア・テレジアは、子供達を可愛がってはいたが、多忙な国務という重責を担う中で子供の世話をする事が出来ず、子供の教育は全て養育係に委ねられていた。



オーストリア宮廷は、非常に家庭的で家族揃って狩りに出掛けたり、バレエやオペラ観覧、皇女達は幼い頃からバレエやオペラを演じて楽しんでいだ。

アントニアは、5歳の時に長兄ヨーゼフ(後のヨーゼフ2世)とパルマ公女イザベラが結婚した宴で見事な踊りを披露している。

1762年10月13日
ザルツブルクの神童アマデウス・モーツァルトが父と姉と共にシェーンブル宮殿を訪れた。
モーツァルトは女帝マリア・テレジアの膝に飛び乗って何度もキスをして、天衣無縫ぶりを見せている。

そして、『神童』と呼ばれた音楽の天才児モーツァルトは、驚くべき腕前でハプスブルク家の人達の前でハーブを弾いて絶賛を浴びた。



この日、モーツァルトは素晴らしい演奏を終えた後、磨き上げられた床で転んでしまった。
そこへ1人の少女が駆け寄って、彼を助け起こしてくれた。

『君は優しいね。大きくなったら、僕のお嫁さんにしてあげるよ』


モーツァルトの余りに無邪気な突然のプロポーズを受けた少女こそ、7歳のマリア・アントニアだった。



しかし、幼くしてプロポーズを受けた皇女アントニアと神童モーツァルトは以降、2度と会う事はなかった。

アントニアが10歳の時に描いた絵

『戦争は他家にまかせ、幸せなオーストリアは結婚せよ』という成句が出来た程、巧みな結婚政策を続けてきた事でヨーロッパの片田舎の貴族の端くれのような家柄だったハプスブルク家が大帝国を築く事が出来た。

マリア・テレジアは、『娘達は、政治の犠牲者です』と嘆いた程、ハプスブルク家には厳格な家訓があった。

「王は、国家そのものであり、王家が滅びるというのは、国家が滅びる事なのです」という、絶対王政の有り方を子供達に教育していた。

既に幼女時から、アントニアは個人の資質など関係なく、外交上、政治の一駒として、名門家の皇女といえど政略結婚の道具でしかなくフランスに嫁がされる運命を担っていた…。

当時、フランスとオーストリアは長年に渡り険悪関係にあって7年もの泥沼戦争が続いていた。
そして、大両国の間にイギリス、プロイセン、ロシア等の利害が複雑に絡み合っていた事から、オーストリアとフランスは大両国に平和と繁栄をもたらす同盟を考えた。

マリア・テレジアは、オーストリア側に有利だった同盟を括弧たるものにする為に婚姻による結び付きとして、末娘アントニアをルイ15世の孫である王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)の妃としてフランスに嫁がせる事にした。

アントニアが選ばれた理由は、同盟の証として単にルイ・オーギュストと年齢的に合うというだけの事だった。

ルイ15世

1763年5月
マリア・テレジアはオーストリア大使として、メルシー伯爵をフランスに派遣する。
しかし、婚姻話が出てから暫くの間、ルイ15世はマリア・テレジアへの返事をしなかった。

●フランス国内でオーストリアとの同盟が不評だった事

●王太子オーギュストの両親が共に結婚に反対して、オーストリアから未来のフランス王妃を迎える事に乗り気ではなかった事

これらの理由で返答を得られない事態を配慮したマリア・テレジアは、フランス大使にアントニアの長所を吹聴した。
そしてフランス側から、正式な返事が届くまでに6年の歳月が過ぎる事になる。



遊び好きなアントニアは、明るく無邪気で愛くるしく、3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育された。
兄や姉と非常に仲が良く優雅に育って行った。

1769年6月
ようやく、フランス国王ルイ15世から、正式な婚約文書が送られて来た事でブルボン家とハプスブルク家の婚約が公にされた。

そして、華燭の典は翌1770年の復活祭と決められた。

しかし、アントニアは頭が良く、優れた資質に恵まれながらも勉強や読書嫌いで、移り気の享楽的な少女だった。

そのせいか、優雅でスタイルも良いのにも関わらず、13歳になっても筆跡は拙く、母国語のドイツ語の文法は誤りが多く、作文にも時間が掛かった。
又、フランス語やドイツ語も書けず、歴史の初歩的な知識や一般的な社会常識も全くわきまえておらず、アントニアの教育は不十分だった。

そこで、マリア・テレジアはフランス・パリから誠実で機知に富んだオルレアン司教のヴェルモン神父をアントニアの家庭教師として呼び寄せた。
アントニアの輿入れに備えて、本格的に学習を学ばせた。

当時、ヴェルモン神父は30歳代半ばで役職は朗読係。
オーストリアにいる間は、フランス語と歴史を教育した。
この頃のアントニアは、ドイツ語もフランス語も正しい読み書きが出来なかった。
しかし、ヴェルモン神父が来て1年後には、僅かなドイツ訛りはあったものの、流暢なフランス語を話せるようになっていた。

そして、アントニアが熱意を持って取り組んだのは、フランス王家の系図と連隊を覚える事。
ヴェルサイユで出会う偉大な宮廷の構成メンバー、その地位と影響力についての講義は熱心に耳を傾けていた。

ただ物事を考えるのが苦手で、肝腎な話になると、いつも退屈して逃げ出してしまうアントニアの原型がヴェルモン神父がヴェルサイユに送られた手紙に書かれている。

『公女は、人を恍惚させるようなお顔立ちの持ち主で、考えられる限りの優美な物腰を身に付けていらっしゃいます。
もう少し成人なさったら、望みうる全ての魅惑を持たれる事でしょう。
その性格や心根も優れていらっしゃいます。
公女は、他の人が予想していたよりも利発な方ですが、残念な事に12歳になるまで集中力は養われませんでした。
少しばかり怠慢で、お調子者が過ぎる為、公女の教育は私には手に余る所がありました。
初めの6週間、文学の大綱を手始めにやりましたが、公女は良く理解されて、大体において正確な判断を下す事は出来ます。
しかし、1つの問題にじっくり取り組ませようとしても、それが出来ないのです。
本来は、出来る子だと分かってはいます。
私は公女の御教育は、同時に遊ばせながらでなくては出来ないという事が分かりました』


アントニアは1770年2月7日に初潮を迎えたが、その事についても「未来の王太子妃が、一人前の女性になられた」と、フランス大使に報告している。

移り気で集中力に欠けるアントニアだが、誠実で機知に富んだヴェルモン神父の事は信頼して、後にフランス王妃となってからも、その信頼は揺らぐ事なく相談相手となっていた。
ただ彼女の生涯を通じて、とうとう一冊の本も読み切れなかった程、飽きやすい性格は成長してもそのまま残ってしまった。

音楽好きのアントニアは、フランスに嫁ぐまでの間にオペラ作曲家グルックに音楽を習ってハーブやチェンバロの演奏を得意として、自分で作曲した歌曲を12曲残している。

そして、輿入れ前に特に歯並びが悪く虫歯もあった歯の治療を開始した。
フランス人が考案した「ペリカン」と呼ばれる技法で不揃いの歯に矯正のワイヤーが掛けられて、3ヶ月後には歯並びは綺麗になった。
後に治療した歯科医は王家お抱え歯科医になった。

アントニアの肌と肌の色合いは、誰が見ても完璧なほど素晴らしく、スタイルは痩せ型で片方の肩が少し上がり気味でコルセットやパットなどで矯正していた。

全体的には魅力に溢れた女性で、何より「人の心を捉えずにはおかない微笑」を持っていた。

「人を喜ばせようとする技芸、あらゆる人を幸せにしたいという欲求」こそが、女性の大きな特徴であり、これらはアントニアが母の愛情を求めて才能豊かな姉達と競い合いながら培ったものだった。

鼻は少し鷲鼻で王妃になるにふさわしい立派なものとみなされていた。
唇は下唇が突き出ていて、不満そうな顔に見え、女性らしくない尊大な態度をとっているように見られていた。
この唇は何世紀も前からハプスブルク家の特徴であった。

大きな瞳の色は、青みがかった繊細なグレーの近視だった為にボンヤリとした目付きになりがちで目と目の間隔が広く開いていた。

髪の量は多く、灰色がかった薄い金髪。
難点は父方ロートリゲン一族の特徴でもある毛の生え際の癖。
真っ直ぐに生えていない髪は、当時の基準では流行遅れで歓迎できないものだった。
その癖髪とアントニアの外見を大きく変える為にパリから美容師のラルセヌールを招いて、アントニアのウィークポイントであった額の生え際の処理がされた。
当時の貴族達は、誰もが生え際を気にして特に重要視された部分だった為、最高の腕前を持つ美容師が推薦された。

ラルセヌールがアントニアの髪に施した「シンプルで上品なスタイル」には、誰もが感銘を受けて、ウィーンの若い貴婦人たちは、それまでの巻き髪を止めて「王太子妃風のスタイル」を一斉に真似した。

マリア・テレジアは、フランスへの輿入れに向けて、様々な教育と花嫁修行をさせて来てもアントニアの性格を熟知しているだけに不安が尽きる事はなかった。

アントニアの長所は善良で親切、明朗快活、純真、優雅等で欠点は未熟、軽率、散漫、集中力がない、面倒臭がり、目先の快楽ばかりを求めて先の事を考える事が出来ない等であった。

フランス宮廷は知性のある王太子妃を望んでいるのではなく、上品で明るい王太子妃を望んでいたのでアントニアは、とりあえずその希望に叶っていた。
しかしマリア・テレジアは、これで娘の将来は安泰だと幻想を抱く事は出来ず、このお転婆娘を少しでも立派な娘にしようと輿入れ前の2ヶ月間、アントニアを自分の寝室に寝かせて、フランス王妃になるとはどういう事かを事細かに諭した。

また、それだけでは心配で不安と悪い予感を案じたのか、マリアシェルへと巡礼に連れて行き神の力にも頼った。

そしてアントニアは、フランスへと嫁ぐ前にハプスブルク家の伝統に則って女帝、皇帝、大臣全員の前に姿を現して、母方父方の継承権を厳かに放棄した。
そして、その晩、首都ウィーンのベルヴェデーレ宮殿で大規模な祝宴が行われた。

この祝宴に出された料理の一覧が当時のフランクフルト新聞に掲載された。

料理は全部で31種類。
ケーキ/112種類、温かい飲み物/8種類、冷たい飲み物/19種類、ワイン/12種類

祝宴料理リストの詳細を見る

このヨーゼフ皇帝主宰の祝宴には、4千人の客が招かれていたが、宮殿に入りきれなかった為にガーデン・パーティになった。

その後、リヒテンシュタイン宮殿で1500人を招いて晩餐会も行われた。

1770年4月19日
アントニアシンプルが生まれた時に洗礼を受けたウィーンのアウグスティヌス教会で夕方18時から代理結婚式が行われた。

代理の花婿はアントニアの1歳上の兄フェルナンド大公が勤めた。
アントニアは銀色のドレスに身を包み、2人は並んで祭壇の前に膝まずき、宮廷司祭ブリーズランスに補佐されて祭式を執り行った。

この日の夜21時から行われた結婚披露宴は数時間続き、祝宴はこれだけでなく、翌日の晩にも祝宴は行われた。
大使や高官たちは、アントニアの手にキスをする事が許されてアントニアは、この日から正式に「王太子妃」と呼ばれるようになった。

娘の事が心配でならないマリア・テレジアは、アントニアに命じてルイ15世宛てに手紙を書かせて、後でテレジアも書き添えた。

『何かあっても、まだ14歳の娘なのだから大目に見てあげて下さい。
でも、この子は善良な心根を持っています。
偉大な両国の幸せな結びつきの印として、どうかお願いします』


皇女マリア・アントニアがフランスへと旅立つ時間が迫っていた…。





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