マリア・テレジア
(マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ)

1717年5月13日-1780年11月29日

オーストリア大公でマリー・アントワネットが敬愛した母

1717年5月13日
ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝カールカ6世と皇后エリザベート・クリスティーネの長女として誕生した。

ヨルダンの川で洗礼を受けたり、マリアツェル教会に『黄金の子供の像』を奉納したりして、両親はマリア・テレジアの誕生を喜んだ。

テレジアは、母親譲りの美しい容姿で市民からの人気も高かった。



1722年
テレジアは、ウィーンに留学で来ていたロートリゲン公子フランツ・シュテファンに恋をした。
夜は夢に見て、昼は女官達に愛しいフランツ・シュテファンの事を話していた。

テレジアには、他に結婚話が持ち上がっていたが、父カール6世も娘が恋焦がれているフランツの事を気に入っていた。
そんな2人は当時では、奇跡に近い恋愛結婚を果たした。



1736年2月12日
2人の婚礼が執り行われた。
夫フランツは、結婚の為に自分が所有するロートリゲン公国を手放さなければいけなかったが、夫婦生活はとても円満だった。

テレジアが結婚式の4日前にフランツに書いた手紙が現在も残されている。

またラテン語、フランス語をはじめ、様々な国の言語で書かれたテレジアの教養の深さを垣間見る事が出来る。

テレジアは、夫フランツが死去した時、テレジア自身の命が尽きるまでの15年間を喪服を身にまとって、他の衣裳は身に付けなかった。

テレジアの生まれた名門ハプスブルグ家は、男系相続を定めていた。
しかし、テレジアの兄が夭折してから、カール6世に男児がいなかった為にテレジアが後継者と目された。
そして、カール6世は国事勅書で国内外にテレジアのオーストリア、ボヘミア、モラヴィア、ハンガリーなど、ハプスブルグ家世襲領の相続を認めさせた。

女が皇帝になる事は出来なかった為に帝位は、テレジアの夫であるロートリゲン公フランツ・シュテファンが就く事になった。
男児の孫を期待していたカール6世は、テレジアに政治家としての教育はしなかった。

しかし、彼女がハプスブルグ家最後の君主である事には変りはなく、テレジアの子供の代からは、『ハプスブルグ=ロートリゲン家』と複合姓になり、ハプスブルグの姓を残して行く。

テレジアは、皇帝に即位した訳ではなく、帝位は夫フランツのもでハプスブルグ家の領国と家督を相続したのがテレジアであった。

●オーストリア大公は、テレジアであった事。
●夫フランツは、小さな国出身の養子的な存在であり、政治的権力を殆ど持っていなかった事。
が挙げられる。

実際、マリア・テレジアの肖像画には、神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている事が多く、ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后でしかないテレジアは、実際には夫よりも権力を持っていた事になる。

その為、フランツは何度も惨めな思いをするが、財政家としては天才肌でオーストリアが国債の発行に踏み切る時に保証人になれる程の莫大な財産を築いていた。

また、テレジアは自然科学にも興味があり、シェーンブルン宮殿の一角には、植物園や動物園が作られて、昆虫や鉱石を分類したコレクションが現在でも残されている。

そして、テレジアは父カール6世に男児がいなく、後継者問題に頭を悩ませていたのを見て育った為、テレジア自身は出来る限り、子供を産もうと考えていた。
そして多忙な政務を熟しながら、フランツとの間に5男11女に恵まれた。
夭折した数人を除くと殆どの娘達は、政略結婚の為に外国の妃となっている。

1755年11月2日
テレジアと夫フランツ1世の15番目の最後の皇女として、難産ながら末娘のアントニア(マリー・アントワネット/フランス語名)が誕生した。



マリア・テレジアは、末娘アントニアを可愛がっていたが、敵対するフランスとの両国の繁栄と和平同盟を結ぶ為にフランス・フブルボン家へと嫁がせる事にした。

そして、マリア・アントニアがフランスへ嫁ぐまでの最後の2ヶ月間を少しでも長く一緒にいられるようにと自分の部屋でアントニアと共に生活する。



1770年4月19日
アントニアが生まれた時に洗礼を受けたウィーンのアウグスティヌス教会で代理結婚式が行われた。
代理の花婿は、アントニアの1才上の兄フェルナンド大公が努めた。
そして、4月21日にアントニアはフランスに向かって出発した。

マリア・テレジアは、未来のフランス王妃となるアントニアの為に心得書を書いて、『これを母だと思って、毎月21日に必ず読み返すように』と、誓わせて手渡した。

そして、これを最後にマリア・テレジアとアントニアの母娘は二度と会う事はなかった。

「このままの成り行きに任せていれば、貴女を待っているのは途方も無い不幸だけだと、私は今から断言できます!」

「あの子は、我と我が身の破滅に向かって、大またに走って行きます!」


愚かな末娘マリー・アントワネットを心配し続けたマリア・テレジアは、肺臓硬化に侵されていた。

1780年11月29日
マリア・テレジアは、ため息ながらに「今日は私の最後の日です」と、両手を天に向かって差し上げて、子供達の名前を1人、1人呼び上げた。

「トスカナ大公レオポルト、ザクス・テシェン公爵夫人マリア・クリスティーナ、パナマ公爵夫人アメリア、ナポリ王妃マリア・カロリーナ」

それから、一秒の沈黙をおいて、殆ど叫ぶように最後の名前をあげた。

「フランス王妃マリー・アントワネット…」

ヨーゼフ2世は、母テレジアが涙にくれて、呼吸困難に陥っているのを見て訊ねた。

「気分が悪いのですか?」

「死ぬには、なかなか良い具合ですよ…」

医者の方に向き直りながら、テレジアは言い続ける。

「臨終の蝋燭を灯して、私の目をつむらせなさい」

1分後、開け放たれた窓の前で女帝マリア・テレジアは息子の腕に抱かれたまま息絶えた。

臨終の際まで、末娘マリー・アントワネットの身を案じ、アントワネット自身も生涯、敬愛する母を愛し続け、処刑される最後の瞬間まで女帝マリア・テレジアの娘である事を誇りに思っていた。








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