デュ・バリー夫人
(マリ・ジャンヌ・ベキュー)

1743年8月19日-1793年12月7日

※ルイ15世の公妾

1743年8月19日
ジャンヌは、母アンヌ・ベキューの私生児としてフランスのシャンパニュー地方の貧しい家庭に生まれた。
彼女の弟が生まれて間もなく、母は男と駆け落ちをする。

母の愛情を受けぬまま叔母に引き取られて育ち、7歳の時に母が金融家と再婚するとパリで義父と暮らす事で義父に可愛いがられて、まともな教育を受けさせて貰えた。

15歳で修道院での教育を終えて、ある家の侍女をしていたが素行上の問題から解雇された。
その後、男性遍歴を繰り返しては娼婦同然の生活をしてあた。

1760年
洋品店『ア・ラ・トワレット』で、お針子として働き始める。
ジャンヌが20歳の時、『パリ1番の極悪人』と悪名高い(※ルエ/極道人の意)デュ・バリー子爵がジャンヌの美貌に目を付けて、2人は同棲を始める。

デュ・バリー子爵の仕事は、売春あっせんで『伯爵』の称号も金で買い取ったものだった。
そして、貴婦人のような優雅な生活と引き換えに子爵が連れて来た家柄の良い貴族、学者、アカデミー・フランセーズ会員などの男性を相手にジャンヌはベッドを共にして、社交界でも通用するような話術、立ち振る舞いを会得した。

そして、デュ・バリー子爵は、ジャンヌの立場を強くする為に自分の弟と結婚させて、ジャンヌは偽りの伯爵夫人『ジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人』となった。

しかし、ジャンヌの夫となった弟が結婚から、僅か数日後に謎の死を遂げた事で『ジャンヌに毒殺された』と噂が流れた。

1768年
デュ・バリー子爵は、友人のリシュ・リュー公爵の仲介で25歳となったジャンヌを『デュ・バリー伯爵夫人』と偽させて、ヴェルサイユ宮殿に連れ出して国王ルイ15世に紹介した。

この時、58歳のルイ15世は5年前に公妾ポンパドゥール夫人を亡くして、25歳の若く美しいデュ・バリー夫人の虜になって一夜を過ごした。



こうして、国王ルイ15世に気に入られたデュ・バリー夫人は、宮殿内で暮らすようになって、ポンパドゥール夫人の後釜として公式の国王の公妾になって宮廷デビューを果たした。
以降、ルイ15世が崩御するまでの5年間を宮廷で権力を振るい続け君臨して行く…。

ファイル
ポンパドゥール夫人

ブルジョワ階級で教養も知性もあったポンパドゥール夫人でさえ、宮廷内の反発は大きかったのにも関わらず、デュ・バリー夫人は政治経済に無関心でルイ15世を出来る限り、仕事から遠ざけるように仕向けていた。

ポンパドゥール夫人が政治に関わっていたのに対して、デュ・バリー夫人は私欲の為に国王を利用して、贅沢に暮らす事だけが望みであった。


(ルブラン画)

フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、、その頃オーストリアからフランス王太子ルイ・オーギュスト(後の国王ルイ16世)に嫁いで来たマリー・アントワネットと王太子妃vs娼婦(寵姫)の対立を始める。

マリー・アントワネットは、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアからの教育と影響を受けて、デュ・バリー夫人の出自の悪さと存在を徹底的に嫌っていた。

加えて、デュ・バリー夫人の存在を疎んじていたルイ15世の娘(三姉妹)アディライード、ヴィクトワール、ソフィーらは、宮廷で最も身分の高い婦人であるマリー・アントワネットに入れ知恵をし、味方に付けて後ろ盾にした事で2人の対立を一層、深めた。

しかし、デュ・バリー夫人は、朗らかで愛嬌がある親しみやすい性格で宮廷の貴族達からは、好かれていたとも言われている。


デュ・バリー夫人(29歳)

1774年4月27日
狩の途中で国王ルイ15世が天然痘で倒れるとデュ・バリー夫人は看病に努めた。

5月9日
宮廷司祭からポン・トー・ダム修道院に入るよう命令が出され、ルイ15世が逝去するとヴェルサイユから追放される。


ルイ15世没後のデュ・バリー夫人

ヴェルサイユからの追放後、デュ・バリー夫人は宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のリシュエンヌ城に起居して優雅に過ごすようになった。
その後、ド・ブリサック元帥、シャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵の愛人となった。

フランス革命が勃発すると愛人だったパリ軍の司令官ド・ブリサック元帥が虐殺される。

1791年1月
ロンドンに亡命。
そもそもデュ・バリー夫人がロンドンに行ったのは、彼女の盗まれた宝飾品がロンドンで見つかったという情報を得て、確認の為であった。
彼女がロンドン滞在中に宮廷御用商人ローズ・ベルタン嬢とも再会をしている。

フランスでは革命が激化して、ルイ16世が処刑されてフランスは、王侯貴族には危険な国となった。

1793年3月
フランスに残してあるルイ15世からプレゼントされた城や沢山の宝飾品が気になって、危険な状況下でもベルタン嬢の忠告も聞き入れず、わざわざフランスへと帰国した。

1793年9月22日
かつて、デュ・バリー夫人の下で働いていた使用人の通告によって逮捕されるとコンシェルジュリー牢獄に投獄される。
彼女が閉じ込められたのは、宮廷で敵対したマリー・アントワネットが過ごした同じ独房部屋であった。

1793年12月7日
50歳になっていた彼女に昔日の面影はなく、美しかったブロンドは白髪になり、ほっそりとした華奢な美女は太った老女になっていた。

そして、革命裁判で死刑宣告を受けて革命広場へと護送される。
デュ・バリー夫人は泣き叫び、断頭台の周囲に集まった群衆達に慈悲を乞い、彼らの心を掻き立て、死刑執行人アンリ・サンソンにまで泣いて命乞いをした。

執行人サンソンは、デュ・バリー夫人がお針子として働いていた頃、恋人だった事があった。

サンソンは、15歳で父親の跡を継いで生涯に2700人余りの処刑に携わった彼も、若き日の恋人を手に掛ける事は出来ず、息子に処刑を任せた。

そして、3人の助手に取り押さえられて、デュ・バリー夫人の処刑は執行された。

王妃マリー・アントワネットの処刑から2ヶ月後でフランス最後の寵妃の哀れな最後であった。


断頭台に連れて行かれるデュ・バリー夫人

女流画家ヴィジェ・ルブラン夫人の記述には、「革命裁判所で死刑を宣告されて、命を落とした多くの女性達の中で断頭台を直視できなかったのは、デュ・バリー夫人だけだった」と記している。






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