ポリニャック夫人
ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン

1749年9月8日-1793年12月9日

※マリー・アントワネットの寵臣

1767年
ポリニャック伯爵(後に公爵)と結婚。

ポリニャック家は、代々ブルボン王家に仕えて、特にメルシエ枢機卿はルイ14世とルイ15世の代表的な外交官として重用された。
しかし、ルイ14世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人が1676年に起こした黒ミサ事件に関与者を出し、またメルシエ枢機卿もメーヌ公妃のクーデターに関与して失脚した事から、ポリニャック家の家運は衰退して行った。

マリー・アントワネットの王太子妃時代から、1番の心の友として王家とも血縁関係にあるランバル公妃が宮廷女官長を務めていた。


ランバル公妃

享楽的なマリー・アントワネットは、次第におとなしく控え目なランバル公妃を物足りなさを感じるようになっていく。
そこに登場したのが奇しくもランバル公妃と同じ生年月日生まれのポリニャック伯夫人だった。

当時、26歳だったポリニャック伯夫人は、気品と愛らしさを備えた魅惑的な美貌の女性だった。
王妃はポリニャック伯夫人の魅力に惹かれて、天真爛漫な2人は直ぐに意気投合する。
そして、それまで宮廷女官長を務めていたランバル公妃の地位を奪うのに時間は掛からなかった。

マリー・アントワネットは、大好きなポリニャック夫人と一緒に過ごしている時は、王妃ではなく自分自身に戻ると話していた。

ポリニャック夫人は、美人で才気と謙虚さ、優しい心を持ち合わせた当時の宮廷人としては、珍しい人物といわれる反面、そのしとやかな恥じらいは、見せ掛けに過ぎず、彼女はそれを武器に王妃の心を捕えたとも言われている。


ルブラン画/1783年作

ポリニャック夫人の狙いは、衰退していたポリニャック一族への莫大な物質的、社会的な利得と権力を得る事。
ポリニャック夫人は、お気に入りの取り巻きになると宮廷で権勢を振るい、ポリニャック一族を繁栄させていく。

ポリニャック伯夫人は、遊び好きの王妃が親しい友を欲している事を悟ると寵愛への報酬を要求した。

ある日、王妃がポリニャック夫人のサロンに行った時、王妃は自分の肌に合わない胡散臭いものを感じた事があった。
そのサロンに居合わせた顔ぶれについて、王妃が批判めいた感想を洩らすとポリニャック夫人は厚かましく、「私だったら、王妃が誰と付き合おうがアレコレ言う気はないし、自分の交友関係を王妃の趣味に合わせるつもりもないですわ。
陛下が私の所へおいで遊ばすからといって、それが私のお友達を閉め出す理由にはなりませんわ」と王妃に答えた。

この事が原因で、王妃とポリニャック夫人の間は気まずくなって、宮廷への出入りを控えようとすりポリニャック夫人に対して、王妃は彼女を寵愛する余り、宮廷に留まるように説得した。

そして、ポリニャック夫人には年金及び下賜金として、ランバル公妃の15億円に対して、3倍以上の年金50万リーブル(50億円)と下賜金70万リーブルの大金が与えられた。

そして、何不自由なく宮廷に出入り出来るようにと宮廷内に移住させて、王妃専属の馬の担当者が夫のポリニャック伯爵に任命された。
ポリニャック家が所有する馬は、前王妃の倍の数を所有していた。

こうして、ポリニャック家を丸抱えして貰ったポリニャック夫人は、王妃を思いのままに操るようになって、私欲と権勢を振るっていった。


ルブラン画/1787作

ポリニャック夫人との交遊で王妃の浪費は増長していき、第1子マリー・テレーズを出産する間、ポリニャック夫人にそそのかされて毎夜、賭博に熱中して莫大な額を浪費した。

出産後の王妃は、ヴェルサイユ宮殿を離れて子供達と親しい友人だけで過ごせるプチ・トリアノン離宮に移住する。

ポリニャック夫人は、ルイ16世やランバル公妃でさえ招待されなかった離宮に宿泊できる程、王妃からの寵愛を受ける数少ないお気に入りの1人になっていた。

しかし、フランス革命が勃発するとポリニャック夫人は、王妃を見捨て国外へと亡命する。

1793年12月9日
マリー・アントワネットの処刑から1ケ月半後、ウィーンで急死する。

ポリニャック夫人の次男ジュール・ド・ポリニャックは、王政復古後に帰国して、1829年にフランスの首相になった。
だが、徹底的な反動政策で民衆の恨みを買い、7月革命によって、首相の地位は奪われて終身刑の判決を受ける。
だが、運良く大赦によりロンドンへ逃れて、1847年に帰国後パリで没した。










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