フェルセン伯爵
ハンス・アクセル・フォン・フェルセン

1755年9月4日-1810年6月20日

スウェーデンの伯爵貴族でマリー・アントワネットの愛人

スウェーデン国王グスタフ3世の寵臣で次代グスタフ4世にも仕えて、ナポレオン戦争に至る時代までを生きた。

1755年9月2日
強い政治的影響力と莫大な資産を持つ王家に忠実なスウェーデンの名門貴族で、王室顧問であるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の長男としてルフスタッド城で誕生。

父フレデリックはフランスを第2の故郷として愛して、家庭ではフランス語で会話がされていた。
フェルセンは容姿端麗で背が高く、雄弁家に育った。

1773年12月
14歳の時にヨーロッパ歴訪の旅に出た。
当時の貴族社会の習慣に従い、見聞を広げる為に3年間ヨーロッパを遊学し、各国の王家や貴族階級との親睦を深めていき、教養を身に付けた後、18才でパリの社交界にデビューしたばかりだったが、既に上流社会の貴婦人達からの人気を得ていた。

1774年9月4日
フェルセンは、駐仏スウェーデン大使クル−ツ伯爵と共にヴェルサイユ宮殿で開かれた舞踏会に出席した。
フランス王室の人々からも好印象で迎えられて、初めてマリーアントワネットと出会った。

1774年1月30日
深夜、フェルセンの人生に深く関わって行く人物と運命的な再会を果たす。

パリのオペラ座で開かれた舞踏会に背の高い気品に満ちた端麗な風貌のスウェーデン貴公子フェルセンは招待されていた。

幻想的な影を生む無数のキャンドル、軽やかな音楽、芳しい香りを放つ香水、笑い声、その中で何人もの婦人達が意味ありげな視線をフェルセンに送っていた。
既にそうした状況に慣れているフェルセンは、微笑みを浮かべながら会話の輪に入ったり、軽やかに踊ったりした。
フェルセンは貴婦人達の胸をときめかせるだけでなく、男達をも嫉妬させる程に華麗な貴公子だった。

そして、真夜中にオペラ座に到着したのは王太子妃マリーアントワネット。
アントワネットは黒いドミノ仮装衣をまとい、黒ビロードの仮面を着けて、お忍びで参加した為に誰もがフランス王太子妃とは思っていなかった。

アントワネットは、他に大勢の人々が居たにも関わらず以前、宮廷で紹介された端麗な風貌のフェルセンを認めた。

フェルセンと再会できた事はアントワネットを喜ばせ、仮面を被って身分を隠していた事が彼女を大胆にさせ、迷う事なく真っ直ぐにフェルセンに向かって行った。

しかし、どんな服装で仮面を着けていようとヨ−ロッパの長き支配者であるハプスブルグ家の者が持つ威厳と隠しきれない程の品格と華やかさがアントワネットにはあった。

肌は抜けるように白く、手足は細く、髪は絹糸のような光沢を放つブロンド。

しかし、フェルセンは話し掛けて来た女性が誰か分からないまま、その女性に微笑みを返した。

若き18歳の2人は笑い声を上げながら、語り合い、自由に語り合える喜びが一段とアントワネットの美しさを耀かせた。
もはや、仮面の中に留めておけない程で無邪気さ故に天孫降臨なアントワネットは自ら、仮面を外して身分を明かした。

そんな王太子妃とフェルセンの周りに徐々に人の輪が出来始めた。
そして、「もしかしたら、あのお方は…?」

アントワネットに視線を走らせながら、ひそひそと囁く声が聞こえ始めると、いち早く気付いた女官達は、王太子妃を取り囲んでオペラ座を去った。

オーストリアとスウェーデン、ヴェルサイユでは異邦人である2人の友情は、次第に宮廷内で噂となって流れ始めて行く…。

1774年5月12日
半年間、パリ・ソルボンヌ大学で物理と自然科学を学ぶ為に宮廷から姿を消す。

1774年12月
王妃との噂が拡散されない様にスウェーデンへと帰国する。

1778年
4年ぶりにフェルセンがフランスへと戻って来る。
フランスに到着後、ヴェルサイユ宮殿へと出向いた。

『本当に私達は、ずっと前からのお友達です』

王妃はお気に入りのフェルセンとの再会を心から喜んで、彼に対する自分の感情を抑える事が出来なかった。

しかし、フェルセンは軍人として飛躍の場を新大陸に求めて、自らフランス軍に志願を申し出た。
そして、アメリカ独立戦争に参戦する事で王妃の熱い眼差しを避けるかの様に何千マイルの距離を置く決意をする。

1780年4月
パリのグルネル・サンジェルマン通りにあるスウェーデン大使館でクル−ツ伯爵は安堵の溜め息をついた。
先程、りりしい軍服に身を包んだフェルセンが大使館に現れて、これから軍港プレストに向かい他の軍人達と合流しアメリカへ向かうと歯切れの良いい声で挨拶したからであった。
フェルセンを見送ったクル−ツは、彼の決意に感謝するばかりだった。

日々、拡散するフランス王妃と若き貴公子との噂が昼も夜もクル−ツを悩ませていたからであった。
フェルセンがフランスを去って、大西洋を隔てた遠いアメリカに行けば、二人の間に距離が置かれて噂も時と共に静まり、二人にとって、何よりも祖国スウェーデンとフランス両国にとって安全となるものと確信していたからであった。

父親のような眼差しで若きフェルセンを見送った後、クル−ツはスウェーデン国王グスタフ3世に手紙を書いた。

「陛下に是非共、お知らせしなければ成らない事は、若いフェルセン伯爵が王妃に余りにも好意的に見られており、その為に人々に懸念を抱かせていた事でございます。
王妃が彼に興味をお持ちに成られいるのではないかという証拠を私自身も何度も目にしております」


この手紙で明らかな様に王妃は、誰の目から見てもハッキリと分かる程、あからさまにフェルセンを特別扱いしていたのである。

それに対して、フェルセンは冷静さを失わなかった。
それをクル−ツは手紙の中で誉めた。

「若いフェルセン伯爵は、そうした状況であっても賞賛すべき態度を示し、控えめで態度を守り、何よりもアメリカに行く決心をしたのでございます。
彼は遠ざかる事により、自分が置かれている立場の危険を防ぐ事になるのでございます」


フェルセンと同い年で若き24才の王妃にとって、心を預けている人との別離は辛いもので傍目にも分かる程だった。
クル−ツの手紙がそれを語っている。

「別れの日が迫って来ると、王妃はフェルセン伯爵から視線を離す事すら出来ず、彼に言葉を掛ける時には目にいっぱいの涙を浮かべておられました」

見るに見かねた王妃の女官フィツ・ジェイムス公爵夫人はフェルセンに面と向かって言った。

「まあ、それでは貴方は征服を諦めるおつもりですか?」

それに対してフェルセンは公爵夫人の目を真っ直ぐに見ながら明るい声で答えた。

「もしも、私に征服すべき人が居るのであれば、見捨てる事など致しません。
私は少しの心残りもなく、自由の身で発つのです」


既に心の底からフェルセンを愛していた王妃は、彼が自分に対して少しの愛情も抱いていない事を知って泣き崩れた。

それでもアメリカ独立戦争の参加中にフェルセンと王妃は偽名で手紙のやり取りを交わして、フェルセンは王妃を諭した。

『行動は慎重に。行動する前に手紙で相談する事』

フェルセンを愛する王妃は、彼との文通によって心に平穏をもたらしていた。

フェルセンからの手紙の1一通、一通が王妃の気持ちを変え、生活を変化させ、落ち着きある静かな暮らしを愛するようになった。


1783年6月
フェルセンが無事に帰還して、手紙上で結び付いていた2人に別れていなければならない必要などなくなった。
そして帰還したフェルセンに王妃は引き返せない思いを伝えた。

『貴方に出会えて恋をして、初めて私は生まれて来た喜びを感じる事が出来ました。
輝くような時間でした。それをもっと味わいたい。
その為の覚悟は出来ています』


フェルセンも王妃の言葉に逆らう事はしなかった。

《心から愛されて、愛する事》

王妃はただ1つ、この思いだけを求めていた。

帰還したフェルセンを祝う夜会には、スウェーデン国王グスタフ3世も出席して、グスタフ3世は夜会の返礼に花火を準備していた。

そしてフェルセンが用意していた花火も打ち上げらた。
彼の花火は一際、大輪の花を開かせて緋色のハート形となった。
更に煌めき赤い薔薇色へと変色するると人々からの大きな歓声が湧き上がった。

この夜会の出来事は、王妃にとって生涯忘れがたい思い出となって、許されざる2人の愛は多くの人々の前で愛を確かめ合い満たされた一夜となった。

その後、フェルセンは王妃の計らいによって、ルイ16世からの承認を得てフランス連隊長の地位に就任した。

そんなフェルセンの父フレデリック侯爵は、息子が何故、頑としてフランスに留まろうとする事が理解出来ないでいた。
フェルセン自身は、父に遺産相続があるネッケル嬢と結婚する為だと言っていた。

しかし妹ソフィアには、手紙で自分の本当の気持ちを率直に書き綴っている。

『例え不自然であっても、断じて結婚しない覚悟を決めています。
僕がその人と一緒になりたいと思っており、僕を愛してもくれている唯一の女性とは、僕はどうしても一緒になる事が出来ません。
だから、僕は誰とも一緒になりたくありません』


フェルセンがフランスに落ち着くまで、その後2年間はグスタヴ国王の元にいた。

1785年
マリー・アントワネットは首飾り事件以降、国民からの信頼を失って孤立していた。

騎士的なフェルセンは、王妃が中傷されて威嚇されていると知った時に全てを揚げて真の愛を捧げるようになる。

『あの方は大変不幸な方です。
私がただ1つ心に病んでいる事は、あの方の苦悩を全て除いてお上げする事が出来ず、あの方に当然な程に幸福にして差し上げる事が出来ない事です』


フェルセンの意思は、王妃が不幸に孤独になればなる程に力強く成長して行き、破局が近付けば近づく程に2人は激しく引き寄せられて行った。

1783年9月21日
ルイ16世により、フェルセンはスウェーデン近衛隊司令官兼所有者に任命された。
この地位に着く為にフェルセンは10万リーブルでスパール伯爵から権利を買い取った。
借金で支払われた10万リーブルは、フェルセンの負債になったが、国王が与えた俸給控除額領収書により、負債を返済した。

こうしてフェルセンはスウェーデンに戻らず、愛すべき女性の暮らすフランスに定住する事になった。
しかし、国王からフランス軍スウェーデン近衛隊連隊長に任命された時、フェルセンはスウェーデン国王グスタフ3世のドイツ旅行の共奉で旅に出る。
翌年、ヴェルサイユに逗留したグスタフ3世と共に滞在して、2年後にやっとフランスで暮らす事が出来た。

フェルセンが任命されたスウェーデン近衛隊司令官兼所有者の正式な名称は、ロワイヤル・ドウー・ポン連隊付き員数外大佐。

フェルセンは王妃の側近で彼女を見守り続けていく。
そして数多くの結婚話が持ち上がるが頑なに断り続けて、王妃1人だけに愛を注いだ。
そして、王妃が国民や貴族からの中傷非難を受ける不幸が訪れても献身的に力となって支え続けた。

しかしフェルセンの王妃への愛は、スウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始めた。

スウェーデン国王グスタフ3世の狙いは、フェルセンが王妃を籠絡して、スウェーデンの意のままに政策を誘導する事であった。
しかし、フェルセンは愛人としてではなく、騎士道的な女性への愛にこだわっていた。

しかしフランス革命が勃発するとグスタフ3世は、フェルセンを革命阻止の為にスパイとしてヴェルサイユに送り込んだ。

フェルセンは国王一家が窮地に立たされている事を知るとルイ16世に国外亡命を進言して、国外亡命計画を『ヴァレンヌ事件』を企てた。

しかし逃亡劇は、僅か1日で発覚して失敗に終わってしまう。

革命政府によって、国王一家が裁判に掛けられる為にテュイルリー宮殿から、タンプル塔に移送されて、幽閉後に新たな亡命計画を進言するも国王から拒否されてしまう。

その後、革命が激しくなる中でブリュッセルに亡命して、グスタフ3世やオーストリア駐仏大使と共に再度、国王一家を救う為にあらゆる手段を尽くすも全て失敗に終わった。

1793年8月
王妃がタンプル塔から『死の控えの間』と言われるコンシェルジュリ−牢獄に移送されて、10月から革命裁判所で裁判に掛けられた。

既に王妃の処遇は、裁判前から決まっていたように僅か2週間の裁判で死刑判決を受けた王妃は10月20日に断頭台で処刑された。

フェルセンは胸をズタズタに引き裂かれた思いを妹ソフィア宛てに手紙を書き送った。

『あの方は私にとって全生涯を意味した女性。
私は何故に彼女の傍で死ななかったのか。
彼女の為にこの6月20日(ヴァレンヌ逃亡事件)に死んでいた方が今、永遠の苦悩のうちに生き延びて行くよりか遥かに幸せであったでしょう。
敬慕する彼女の姿は永久に私の記憶から消え去る事はないからです』


月日が変わってもフェルセンの思いは減じず、幾人かの愛人らも彼の心を占めてはいなかった。

数年後の王妃の命日にも書き記されている。

『この日は私にとって、畏敬の念に満ちた日である。
私が喪ったものを私はどうしても忘れる事が出来なかった。
私の痛恨は私自身の命ある限り続くであろう』


ヴァレンヌ亡命計画を実行した6月20日のこの日は、王妃の命日と共にフェルセンの運命の日として絶えず書き留めている。
ヴァレンヌへの逃亡日、フェルセンがルイ16世の命令に従って、王妃1人を危険に取り残す事になった日であった。

そしてフェルセンは、愛する王妃が革命政府によって処刑された時から、愛想のない暗い人間となって、王妃を殺した民衆らを憎む様になっていた。



1796年
スウェーデンでグスタフ4世が親政を開始するとフェルセンも復権して外交顧問に任じられる。

1798年
フランス革命戦争の講和条約のラシュタット会議にスウェーデン代表として参加した。
ここでポレオン・ボナパルトと会談して、この席でフェルセンはナポレオンに王妃との関係を聞かれたという逸話がある。

その後、グスタフ4世の下でスウェーデン国政に携って行くが民衆に対して、強圧的な振る舞いが多くなって暴君者になっていた。

それは憎悪の連鎖を呼び起こす事になって、民衆もフェルセンを激しく憎む様になった。

1809年
グスタフ4世は失政を糾弾されてクーデターによって廃位された。
フェルセンはクーデターには関与しなかったが貴族たちが作った臨時政府には加わっていた。

新しく王位に就いたカール13世には、世子がなかった為に王位継承者に指名されたのは、アウグステンブルク家のクリスチャン・アウグスト王太子。
しかし、民衆からの支持も高かったアウグスト王太子は1年後に落馬によって死亡した。

民衆から、『フェルセンが王位を狙って、王太子を殺したんだ!』と、暗殺首謀者としてフェルセンの名前がストックホルム中に広まった。

カール13世は冷静を装って、フェルセンに指揮官としてアウグスト王太子の葬儀執行を命じた。

1810年6月20日
アウグスト王太子の遺骸がストックホルムに運ばれて、市内広場で葬儀が行なわれた。

そして、六頭の白馬を率いたフェルセンの馬車が到着した。
予てより夢見ている運命を実現させようとフェルセンは、憎むべき民衆を煽り掻き立てると民衆らもフェルセンに投石襲撃を始めた。

そして、馬上のフェルセンが引きずり下ろされると肩章が飛び、服が破かれて流血するフェルセンに暴行を続ける。

フェルセンと一緒にいた副官は現場にいた近衛連隊の指揮官と兵士たちに制圧を命じたが拒否され、副官に救出されたフェルセンは建物に身を隠すも侵入して来た暴民らにこん棒で頭部、胸部、腹部など踏み砕かれて虐殺された。

ランバル公妃のように首の切断や内臓を出されたり、心臓を剣に掲げられたりされる事はなかったものの、遺体は全裸で排水溝に投げ捨てられるという無惨な扱いを受けた。

フェルセンが虐殺された、この日は19年前に自らが計画をして、国王一家と共に国外逃亡を決行した日であった。

フェルセンの遺体は、当日中に住居ステーニンゲ城に安置されて、翌年4月12日にリッダホルム教会で葬儀が行われた。



フェルセン撲殺で逮捕された人数は700名で有罪で終身刑となったのは、たった2名だけだった。

フェルセンの妹ソフィア・パイパー(1757-1816)は、マリーアントワネットの崇拝者で王妃の一房の髪を持っていたという。





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