ベルサイユに火花散る

オーストリア・名家ハプスプルク家の皇女マリー・アントワネットがプルボン家に輿入れして来て間もなく、華やかなヴェルサイユでは国王ルイ15世の公式寵姫デュ・バリー夫人と火花を散らす女同士の対立が始まった…。



元々、デュ・バリー夫人と対立していたのは、マリー・アントワネットの叔母にあたるルイ15世の3人娘であった。

三姉妹は、「フランス王家の王女」という称号が三姉妹のプライドであり、唯一の自慢でもあった。



三姉妹のリーダー的存在だったアデライード王女は、父ルイ15世の寵愛を受けていたポンパドゥール夫人に対して、幼い頃から激しい反感を持っていた。



三姉妹は、あらゆる結婚相手が王位にある君候の息子であろうと、姉妹にとっては身分に相応しくない結婚のように思え、ヴェルサイユで「国王の娘」という栄光を保ったまま婚期を逃していった。





賢明なポンパドゥール夫人は、王妃に色々と気を遣っており、王妃との仲は悪くはなかったのでアデライード王女に対抗する術がなかった。

ルイ15世はポンパドゥール夫人が42歳で死去するまで寵愛し続けた。



ポンパドゥール夫人の没後、数年間をアデライード王女がヴェルサイユの政治を取りしきった事もあった。
1769年に娼婦デュ・バリー夫人がルイ15世の新たな愛妾として、宮廷に上がった為、三姉妹は共同戦線を張ってデュ・バリー夫人に対抗した。

日々、繰り返される三姉妹からの嫌がらせにすっかり気が滅入ったデュ・バリー夫人は、ルイ15世に何度も泣きついて、ルイ15世も三姉妹を煙たがるようになった。

その後、ルイ15世とデュ・バリー夫人はオーストリアとの同盟を望み、孫の王太子(後のルイ16世)と大公マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットの結婚を画策した。
しかし、アデライード王女を筆頭とする姉妹達はデュ・バリー夫人が親オーストリア的態度を取るのに対抗して、この結婚に強硬に反対した。

マリー・アントワネットの結婚式の前日、ルイ15世から「テーブルの端で微笑む白いドレスの婦人(デュ・バリー夫人)をどう思うかね?」と尋ねられたマリー・アントワネットは、「素敵な方ですわね」と素直に答えた。

まだ宮廷の事を知らない14歳のマリーアントワネットは、ノワイユ夫人にその女性の名前と職務をそっと訊ねた。

「名前はデュ・バリー夫人。お役目は…、王様を楽しませる事です」という曖昧な返事にマリー・アントワネットは、「それなら、私は、あの方の競争相手になるとハッキリ申し上げますわ」と無邪気に言い放ったという。

そして、マリー・アントワネットの結婚式の翌日、デュ・バリー夫人の職務が国王の愛人で、しかも娼婦上がりの女である事を知ったマリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人の存在を許す事が出来なかった。

マリー・アントワネットは、叔母のアデライード姉妹に自分の思いを打ち明けた。
しかし、「オーストリア女」を欲求不満のはけ口に利用する事しか頭になかった底意地の悪い、醜い老王女姉妹にまんまと利用されてしまう…。

こうして、マリー・アントワネットの結婚後、アデライード三姉妹はマリー・アントワネットを自分の味方に引き入れた。

ヴェルサイユ宮廷では、身分の下の者が上位の者に対して、公式の席で自分の方から声を掛ける事は絶対に許されないという不文律があった。
三姉妹は、それを利用してマリー・アントワネットに徹底的にデュ・バリー夫人を無視させた。

この行動にルイ15世は激怒して益々、娘達を疎ましく思うようになった。

日々、マリー・アントワネットは1日の大半を三姉妹の叔母達の機嫌取りをしながら過ごさねばならず、若い王太子妃にとっては単調で退屈なものだった。

しかし、叔母達に焚き付けられたマリー・アントワネットも娼婦や寵姫が嫌いな母マリア・テレジアからの教育と影響を受けていた事から、出自の悪いデュ・バリー夫人の宮廷での存在を嫌っていた。
こうしてマリー・アントワネットは、日ならずしてヴェルサイユ宮廷の陰謀と中傷の渦に巻き込まれて行く。

そして、マリー・アントワネットの自分の意思を曲げない芯の強さと誇り高さを持つ反面、柔軟性の無さが次第にマリー・アントワネットに多くの敵を作る事になってしまう事を知り得ずにいた…。

日々、宮廷に出入りしている誰もが、天使のような愛くるしいマリー・アントワネットから声を掛けて貰える事を待ち望んでいる。
そんな中、宮廷の掟として国王の寵姫といえども、先に低位のデュ・バリー夫人から女性最高位の王太子妃マリー・アントワネットに声を掛ける事は絶対に許されない。

マリー・アントワネットは、自分の地位とヴェルサイユのしきたりを利用して、当然のように毅然とした態度でデュ・バリー夫人に公的な式典でも、一言も声を掛けずに徹底的に無視して、侮辱と恥を掛かせ続けた。

一方のデュ・バリー夫人も黙ってはおらず、マリー・アントワネットの事を『赤毛のチビ』と呼び、容貌、言葉、仕草など、王太子妃のあらゆる事を批判した。

そんな二人の対立が続く中で、宮廷勢力が加わってマリー・アントワネットの女官の1人が宮廷からの追放を言いつけられた。
この女官の姻戚の一族もそれに抗議して、たちまち宮廷の人々は、将来フランス王妃となる正統なマリー・アントワネット派と現国王の権威を奮うデュ・バリー派の派閥にそれぞれ別れて、彼女たちの機嫌をとっていた。

王太子妃vs国王の妾…。
スキャンダル好きの宮廷貴族達は、この2人の成り行きを興味と意地悪い期待で見守っていた。
そして、『いつ、王太子妃がデュ・バリー夫人に声を掛けるか?』の話題で持ちきりとなって、金品の賭け合いもされていた。

デュ・バリー夫人がマリー・アントワネットに対抗を示しすも結局は、国王の愛人であるだけの弱い立場に変わりはなく、公然と侮辱と無視され続けた。
デュ・バリー夫人にしてみれば、王室から公式に認知されている愛妾の身分を持ち、これまでヴェルサイユに君臨して来た自分が、これ程までに王太子妃から不当に無視されるという侮辱は耐えられないものだった。

この状態に耐え切れなくなったデュ・バリー夫人は、王太子妃に声を掛けて貰えるようにルイ15世に取り成しを懇願した。
面倒な事の嫌いなルイ15世も遂に王太子妃の女官長ノワイユ夫人を呼びつけて、ノワイユ夫人から早速にマリー・アントワネットに警告された。
むろんオーストリア大使のメルシー伯を通じて、オーストリア大女公マリア・テレジアにも急使が送られた。

メルシー伯は、アデライード王女について、「アデライード様とソフィー様は、マリー・アントワネット様のお心にヴィクトワール様を疎む気持ちを吹きこもうと努めている。

アデライード様がアントワネット様に教えた全ての知識のうち、アントワネット様に有害でないものは1つもない」
と証言している。

メルシー伯からの急便を受けたマリア・テレジアは、娘の気持ちに理解を示つつも総理大臣カウニッツの名前で説得すべき手紙を送り付けた。
しかし、届けられた手紙を読んでもマリー・アントワネットの態度が軟化する事はなかった。

次にメルシー伯がデュ・バリー夫人の居室に呼び出されて、「どうか、貴殿のお力で王太子妃の態度を変えさせるよう努力して頂きたい」とルイ15世は、メルシー伯に礼を尽くして訴えた。

メルシー伯に諭されたマリー・アントワネットは、それでも頑なに態度を変える事をしなかった。

『下賎な娼婦に声を掛けたら、娼婦の出入りを認めた事になる』

マリー・アントワネットは、王太子妃という正統で最高の地位と名誉と誇りに架けて、固く心に決めていた。

しかし、それは女同士の争いには留まらずに国王の命令に背き、国王を侮辱した事にもなる事でもあった。

1771年7月
母国オーストリアから対立を止めるよう、再三に渡って忠告を受け続けていたマリー・アントワネットは、不本意ながらもデュ・バリー夫人に声を掛ける事をメルシー伯に約束していた。

そして、宮廷で声を掛ける寸前になった時、走り出て来たアデライード王女によって阻止された。

『さあ、王太子妃様、時間でございます!
ヴィクトワール王女の部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!』


こうして、周囲の人々が唖然とする中でマリー・アントワネットは、アデライード王女に手を引かれて退場させられた。
この出来事で、万座の中で笑い者にされて屈辱を受け、プライドを傷付けられたデュ・バリー夫人は国王に怒りをぶつけた。

そして、この事態にオーストリアとフランスの同盟及び政局に不安を感じた大公マリア・テレジアは、再度マリー・アントワネットに手紙を書き強く諭した。

1772年1月1日
マリー・アントワネットは、母マリア・テレジアの言いつけに従って、たった一言だけデュ・バリー夫人に対する声を掛ける日がやって来た。

元旦のこの日、ヴェルサイユ宮廷では新年大祝賀会が開かていた。
そして、宮廷内の多くの人々がマリー・アントワネットからの挨拶を求めて歩み寄って来た。
その人々の中にデュ・バリー夫人はエギヨン伯爵夫人と並んでいた。

静寂する宮廷内の誰もが注目する中、マリー・アントワネットは、エギヨン伯爵夫人には自然な態度で言葉を掛けた。

次いでマリー・アントワネットは、予め用意されていた(筋書き通りの言葉)『娼婦』デュ・バリー夫人に微妙な角度で頭を巡らせて、独り言のようにたった一言だけ言い放った。

『今日のヴェルサイユは大変な人出です事…』

王太子妃は愛妾に屈伏したが、マリー・アントワネットは気品高く誇りを持って、メルシー伯に言い捨てた。

『私は、あの人に1度は話し掛けました。
でも、これだけにしておこうと固く決心しています。
あの人は、もう2度と私の声の音色を聞く事がないでしょう』


こうして、1年半続いた2人の対立は終結。
以降、マリー・アントワネットは、2度とデュ・バリー夫人と接見する事はなくなった。
デュ・バリー夫人は、老王ルイ15世の逝去後の自分の立場の儚さ、事態の深刻さを心得ていた為、対立終結以後、ヴェルサイユを去る日まで、ひたすら誠意を尽くしてマリーアントワネットの心の変わるの待ち続けていた。

また、マリーアントワネットは叔母アデライード三姉妹とも距離を置くようになった。
以後、三姉妹達は自分達を裏切ったマリー・アントワネットに悪意を抱くようになっていた。
3人の老王女は同じ館に暮らし、団結してマリー・アントワネットの悪口を言いふらしていた。

そこにマリーアントワネットから免職された貴族、取り巻きに入れて貰えない嫉妬に燃える貴夫人達が加わり、マリーアントワネットに関する悪評を語り合い、広く世間に知れ渡るようにしていた。






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