1749年9月8日-1792年9月3日 1749年9月8日 北イタリアのトリノを中心にピエモンテ地方やニース、そしてサルデニア島も加わってサルデニア王国の国王の家系で一時、イタリア統一国家の国王にもなったサヴォンイア家の四女としてトリノで生まれた。 1767年 ルイ14世の曾孫ランバル公ルイ・アレクサンド公爵と結婚して、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズとなった。 しかし、結婚1年後に夫と死別して若くして未亡人となった。 1770年 14歳でオーストリアから、フランスのブルボン家に嫁いで来た王大子妃マリー·アントワネットと同時にランバル公妃もヴェルサイユ宮廷に仕えるようになる。 ランバル公妃は、父パンティエーブル公爵と一緒に王大子ルイ・オーギュスト(ルイ16世)と王大子妃マリー・アントワネットの結婚祝賀会に招かれた。 中央上座にルイ15世、王大子と王大子妃が向き合い、プロヴァンス伯爵(後のルイ18世)、アルトワ伯爵(後のシャルル10世)、マダム・クロティルド、ルイ15世の三姉妹、オルレアン公爵、シャトル公爵、コンデ公爵、ブルボン公爵夫妻、グレルモン伯爵、コンティ公妃、ラ・マルシュ伯爵夫妻のあとにランバル公妃と父パンティエーブル公爵が囲んだ。 マリー・アントワネットは、ランバル公妃の優しく純真な性格に心惹かれて、マリー・アントワネットから最も信頼されて、王家一族の世話を任せられる女官長に任命された。 そして、ランバル公妃もマリー・アントワネットに全身全霊で仕えた。 ただ、その忠義とは裏腹に実務面では、決して、やり手であった訳ではかった。 また、浪費癖の贅沢が過ぎるマリー・アントワネットに注意をする事もなく、自らも宝石やドレス選びに熱中していた。 しかし、名門出の富裕で優しく純粋なランバル公妃は決して、マリー・アントワネットに寵愛されようとも、好意に付け入るような事はせず、寵愛を利用する事もしなかった。 ここがポリニャック伯夫人との最大の違いである。 それでも約15年もの間、毎年15万ルーブル(約10億円)の御下賜金が与えられていた。 1776年 この頃から、マリー・アントワネットの寵愛がランバル公妃から、ポリニャック伯夫人へと移り始める。 そして、ランバル公妃の女官長としての地位もポリニャック伯夫人の思惑で奪われてしまう。 奇しくもランバル公妃とポリニャック伯夫人は同じ生年月日であった。 ポリニャック伯夫人は、一族ぐるみでマリー・アントワネットを利用する。 そして、思いのままに地位と名誉を得て、莫大な金品までも巻き上げるような女性であった。 そのうち、マリー・アントワネットもポリニャック伯夫人の本性に気付き始めて、再びランバル公妃に寵愛を戻して、宮廷を退いていたランバル公妃を宮廷に呼び戻している。 1789年7月 フランス革命が勃発すると真っ先に我が身を案じたポリニャック伯夫人は、マリー・アントワネットを見捨てオーストリアへと亡命した。 1791年 ランバル公妃はフランス革命が勃発した時、一時期、王室一家への救援を求めて英国にまで渡って離れていた。 しかし、マリー・アントワネットの苦難を知って、安全な英国から帰国すると1人でヴェルサイユ宮殿から、パリのチュルリー宮殿に軟禁されていた国王一家の元に舞い戻った。 そして、マリー・アントワネットを励ましたり、自分の部屋を王党派と国王一家との連絡場所として提供したり、国王や王妃支持派の人たちの隠れ家として提供した。 そして、チュルリー宮襲撃事件が起きるまで、常に国王一家とマリー・アントワネットの傍らにいた。 1792年8月10日 ランバル公妃は、王党派として国王一家と共にタンプル塔へと投獄された。 1792年8月11日 立法議会によって、フランス全土の反革命容疑者の逮捕許可と犯罪者達を裁く『特別刑事裁判所』の設置承認がされた。 1792年8月19日 ランバル公妃は王室支持者として、タンプル搭からラフォルス牢獄へと移送される。 監獄後、マリー・アントワネットとブルボン王家への忠誠心から誹謗を頑なに拒んだ。 この頃、パリの牢獄は反革命主義と看做された囚人で既に満員になっている状況下で、民衆による牢獄襲撃『9月虐殺』が始まった。 それは、次々と牢獄が襲われて、囚人は手当たり次第に引きずり出され、問答無用の殺害や略式裁判の真似事の後に虐殺するという手口であった。 興奮した民衆らは、アベイ牢獄とカムイ牢獄の合計173人の収容されていた聖職者を虐殺した。 1792年9月3日 民衆による虐殺は数日間も続いて、ランバル公妃が投獄されていたラフォルス牢獄も暴民に襲撃された。 そして、ランバル公妃がマリー・アントワネットの友人であり、王党派であるという事で、憎悪した暴民らに獄舎から引きずり出された。 民衆たちは、『国王への忠誠を破棄しろ!』と迫られた。 しかし、ランバル公妃が要求を拒否した事で暴民によって虐殺された。 暴民はランバル公妃の遺骸から衣装を剥ぎ取って、裸にすると身体をバラバラに切断して、パリの町中を引きずり回して踏みにじった。 また、ランバル公妃の首を槍先に突き刺し、長いブロンドの髪の毛は血に染まり、その髪を風にたなびかせ、掲げたままタンプル塔まで練り歩く民衆の旗印となった。 そして、王妃マリー・アントワネットの幽閉されているタンプル塔の窓に高々と掲げて、見せ付けるという示威行為をとった。 それは、『マリー·アントワネットとレズビアンの相手だ』と、噂があったランバル公妃の首級と接吻させるのが民衆の目的だと知った王妃は卒倒して気を失った。 革命以来、常に気丈に振る舞っていた王妃が完全に気が抜けてしまったのは、この時だけだったとマリー・テレーズは綴っている。 ※マリー・テレーズ『回想記録』より 9月3日、朝8時にマニュエルがランバル夫人をはじめ、フォスルス監獄で平穏無事に暮らしていると告げる。 15時、凄まじい悲鳴が聞こえた。 父は何気ない振りで話しをする為に母とゲームをする。 監視の役人は機転を利かせ扉と窓を閉める。 その騒ぎにタンプル塔の人夫、あの恐ろしい男ロシェが加わった。 衛兵隊、士官の役人が部屋に入って来る。 「ランバル夫人の首を持って来たのさ」 母が気を失ったのは、その時、1度きりだ。 監視の役人は士官をたしなめたが、父は尋ねた私が悪いと詫びる。 騒ぎは17時まで続いた。 6人の人殺しは首を掲げて、塔を一周する。 ランバルロ夫人の切り離された遺体は入り口に置かれた。 ロシェは、ランバル夫人の首を見てしきりに歓声をあげる。 母は部屋の中の出来事など、1つも目に入らず、じっと立ったままだった。 叔母と私は一晩中、非常呼集の太鼓の音を聞いていた。 母のすすり泣く声。 私たちは虐殺がまだ続いているとは思っていなかった。 三日間、続いたと知ったのは暫く経ってからだった。 また、ルイ16世の従僕クレリーの日記にも綴られている。 ※『国王ルイ16世の従僕クレリー-の日記』より 1792年9月3日 昼食の最中に太鼓の音、次に人民の叫びが聞こえた。 窓の向こうに槍の先に刺さった人の頭が現れた。 ランバル公妃の首だった。 血だらけだが顔は崩れてなく、髪には、まだカールが掛かっていた。 陛下の所に行くと役人が二人いた。 市民が窓際に姿を見せろと要求しているのを役人は告げていた。 王妃様への罵声が激しくなる。 そこにまた数人の男達が入って来た。 国民衛兵の服を着た男が王妃様に向かって『ランバルの首を見せたがっているんだよ』と王妃様に言った。 王妃様は気を失って倒れた。 陛下は毅然として言った。 『私たちは、どんな覚悟も出来ています。ムッシュー。 でも、そんな恐ろしい話を王妃の耳に入れないでおいて貰いたかったですね』 ご家族はエリザベート様の部屋へ入られた。 私は暫く、王妃様の部屋にいた。 窓からランバル公妃の首が見えた。 別な男は、不運な公妃の血だらけの心臓を剣の先に刺して、掲げていった。 w友達に教えるw [編集] 無料ホームページ作成は@peps! |