ルイ・ジョゼフ
(ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ)

1781年10月22日
午後1時15分、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの待望の王位継承者、フランス王太子として誕生した。

国王夫妻の待望の長男であった為に王位継承順位の第2位であったルイ16世の弟プロヴァンス伯(後のルイ18世)ら、数人の野望を砕く結果となった。

第1子、王女マリーテレーズの出産時には、余りに大勢の見物人が詰め掛け、王妃が窒息し掛けた為にジョゼフの出産には、叔母達とアルトワ伯爵、ランバル公爵夫人、ゲメネ公爵夫人、ドサン夫人など数名が立ち会うだで御座所立ち入り、大特権保有者、奉公人や女官らは大広間に控えていた。

12時に陣痛が始まってマリー・アントワネットは、安産でジョゼフを出産した。
王妃が王子誕生と知らされたのは出産後、1時間後だった。
王太子の誕生を心から願っていた王妃に知らせて、出産で体力を使い果たした彼女が興奮のあまり、失神などしないようにとの配慮からであった。

知らせを待つ間、王妃は『また王女が生まれた…』と思い込んで、不安を抱いている所にルイ16世が喜びの涙を流しながら、『王太子が部屋に入る事を望んでいる』と、マリー・アントワネットに告げた。
そして、ゲメネ公爵夫人が生まれたばかりのジョゼフ王太子を抱いて入室。
マリー・アントワネットは『王太子は国家の子。しかし、王女は自分の手に取り戻す』と、ゲメネ公爵夫人に告げた。
大広間では、王弟プロヴァンス伯爵を除いて、誰もが歓声を上げて抱き合い、喜びに溢れた。



午後15時、後に首飾り事件に巻き込まれるロアン大司教により、ジョゼフ王太子に洗礼が授けられた。

祝砲が轟き、国民は王太子の誕生を知り、パリは歓喜に湧き立ち、盛大な祝典が始まった。
歓喜の鐘は三日三晩鳴り続けて、仕事は2日間休みとなって、市民にはお金が配られて、給食台では食事が振る舞われた。

花の飾りを着けた市の役人が長い行列を作り、薪の周りを三周する慣例行事が行われた。
パリ市からは、ジョゼフ王太子の誕生を祝して、音楽時計や新生児用品一式を贈答した。

また、職人の同業組合(ギルド)の代表者たちがヴェルサイユを訪れて、それぞれの職業を象徴する品を掲げ、楽隊と共に行進した。
祝辞の行進は9日間に渡り、錠前作りを好む国王の為に錠前職人組合は、開けると中から、王太子の人形が飛び出す細工された錠前を贈った。

女性達は、十字架の変わりに金のイルカの首飾り(イルカは王太子『ドーファン』を表す)を身につけていた。

煙突掃除人組合は、中に人が入れる程の煙突を持ち込んで、その上には小柄な掃除夫が乗って陽気な歌を歌い、肉屋組合は立派な牡牛を追いながら、鍛冶屋組合は鉄を叩きながら、籠屋組合は金の籠に小さな王太子と乳母の人形を乗せて行進した。

仕立て屋組合は、連隊の制服を持ち、靴屋組合は小さな子供靴を持ってきた。
果物屋組合は、王太子のお粥を作る為に銀の鍋を献上した。

パン屋組合は、マリー・アントワネットの宮殿殿の玄関でパンを焼いて、そのパンを王妃は美味しく食した。

この頃は、俳優で後に公安委員となり、国王の処刑に賛成し、ロベフピエールの失脚にも関わるコロー・デルボワは、マリー・アントワネットに一遍の詩を捧げた。

フランス中の町や村で人々は、楽器に合わせて歌い踊って、国王夫妻とジョゼフ王太子を祝した。
こうして、未来のフランスを担うジョゼフ王太子は、国中を揚げて祝福された。

しかし、パンツ市は、この祝賀行事に架かる費用が負担になると懸念して、役人が着けた花飾りは生花ではなく造花だった。
一方、飢えた人々は浮かれ騒ぐ貴族への憎悪を募らせていった。

ルイ・ジョゼフは、美しい聡明な子供で、未来の統治者に相応しい王太子で彼の言動は、しばしば周囲の者を感動させて、国王夫妻に限りない喜びと国家と国民に希望を与えた。



2人の子供に恵まれて幸せな国王夫妻は、揃って子煩悩で出来る限り子供達と一緒に過ごす時間を取るよう心がけていた。
しかし、心配事が持ち上がった。

ジョゼフには、数名の乳母が就けられていて、ジョゼフは初期の結核の症状を示していたが気付かずにいた。
後年に結核と判明した時、乳母の1人だったジュヌヴィエーヴが移したのではないかと疑われた。
彼女は、歌が上手で王太子に何度も歌って聞かせ、それに合わせてマリーアントワネットがクラヴサンを奏でる事もあった。

ジョゼフが3歳になった頃から、高熱に苦しむ日が続き、ミュエット城で静養し、回復するとヴェルサイユ宮殿に戻るという生活が始まった。



1784年4月
ジョゼフは高熱を出すも治療を受けて直ちに回復した。

1785年3月
ジョゼフは種痘を受けた。
深刻な症状は出なかったものの、健康は損なわれた。

1786年4月
ジョゼフ5歳、再び高熱を出す。
ジョゼフの発熱で結核である事が判明した。
未来の国王になる為の教育を行なう年齢に達した為、男性が養育係を務める事になった。
その儀式が行なわれた際、既に脊髄は曲がり始めて、歩行困難の状態で10月から、脊髄を治す為に鉄のコルセットを装着するようになった。

1788年1月
熱で体力が消耗し始めて、病状が急速に進行した。
脊椎カリエスでジョゼフの寿命が長くない事が国王とマリー・アントワネットに告知された。

5月8日、ヴェルサイユからさほど遠くないムードンの森の中の館で本格的静養を行なう事になった。

人一倍子供好きなマリー・アントワネットは、時間が許す限りジョゼフの側にいるよう心がけた。
国王も毎日、会いに行き、マリー・テレーズ王女も可哀想な弟に優しく声を掛けていた。

時には、ジョゼフを連れ立って庭園を散歩する事もあったが、それも徐々に出来なくなり、遂には車イスに座る日が来る。

医師達の必死の治療と国王夫妻の祈りにもかかわらず、病気は容赦なく悪化していった。

1789年6月4日
三部会開催中にジョゼフは、僅か7歳半でムードンで死去。

ルイ16世は数日間、悲嘆に暮れて三部会での議員からの質問に立たなかった。
議員らは、国王を非難したがルイ16世は、『この三部会には、子を持つ父親はいないのか?』と応酬した。

後にマリーアントワネットは、『この頃、私たちの息子の死さえ、彼らには伝わっていなかった…』と述懐した。

既に国家には、ジョゼフ王太子の葬儀を執り行うだけの資金もなく、銀製品を売りさばいて葬儀代金を工面して、葬儀が執り行われた。

王家の墓であるサン・ドニ教会の地下に葬られたのは、奇しくもバスティーユ監獄襲撃の前日、1789年7月13日の事だった。

神は天使のような少年に革命の酷い結末を見せないという慈悲を与えて、天逝させた。



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