王妃への非難


マリ−・アントワネットに対する不満は、最初の頃は宮廷内だけに留まっていた。
しかし、マリー・アントワネットを中傷する噂は、故意にパリに流されて、スキャンダルを流す事を生きがいとする市民達によって、王妃の宮廷生活は、まるでルイ15世時代の「鹿の苑」のように脚光を浴びる事になった。

そして、『いかがわしい背徳の秘儀が王妃の保護の元で行われている』と、民衆達は信じるようになっていた。

そんなマリー・アントワネットにとっての敵達は身近にいた。

その筆頭がルイ15世の3人の老王女。
寵姫デュ・バリー夫人に自ら声をかけ、自分達を裏切ったマリー・アントワネットに以後、悪意を抱くようになっていた。
3人の老王女は同じ館に暮らし、団結してマリー・アントワネットの悪口を言いふらしていた。

そこに王妃から免職された貴族、取り巻きに入れて貰えない嫉妬に燃える貴夫人達が加わり、王妃に関する悪評を語り合い、広く世間に知れ渡るようにしていた。

次いで、国王ルイ16世の弟達。
事あるごとに政府に盾つき、それでいて争いの中から私利私欲をむさぼったプロヴァンス伯(後のルイ18世)と、若く美男子で見栄っ張りの浪費家で遊ぶ事にしか目が向かないアルトア伯(後のシャルル10世)だった。

アルトア伯は、兄嫁であるマリー・アントワネットを誘って、お忍びでオペラ座へ出掛けたり、競馬場通いをしたり、ブローニュの森に妖しげな「情事の館」を建てて、そこへマリー・アントワネットを招いて兄嫁を楽しませたりした。

「情事の館」の内部は、床、天井、壁が鏡張りで出来ており、フレスコ画や浅浮き彫りの装飾などは、サド伯爵も度肝を抜かれたであろう程の卑猥なものだった。

また、勅令により国王から上演を禁止されていた「フィガロの結婚」を上演させ、更に翌年には「セヴィリアの理髪師」を上演して、マリー・アントワネットはロジーナ役に、アルトア伯はフィガロ役を演じた。

貴族階級をコケにして、革命思想を煽り立てる喜劇だというのにマリー・アントワネットは、喜んで上演して演劇の世界にのめり込んでいった。

アルトア伯にしてみれば、彼は三男坊であった為、王位継承の見込みが低く、常軌を逸した遊蕩生活でウップンを晴らしていただけで、こうした無思慮なアルトア伯の王妃を巻き込んでの乱交がマリー・アントワネットの評判を悪くして行った。

王妃を特に毛嫌いしていたのは、ブルボン家の分家にあたるオルレアン公ルイ・フィリップ。
野心家の彼は、王妃の権力と誇りに満ちた態度に我慢出来ず、「首飾り事件」をきっかけに、あからさまに攻撃を強くした。
7月14日のバスティーユ監獄襲撃隊は、パレ・ロワイヤルの彼の豪華な館から出発した。

王妃の評判が下降線を辿る一方だったのは、内部の人の反感が強く、それが輪をかけて世に吹聴された事も影響していた。

また、悪名高い名セリフ「パンがなければ、お菓子を食べればいいのに」というセリフは、本当にマリー・アントワネットが言ったのか?
そういった事実はなく、実際は、このセリフは少なくとも百年前から知られており、幾つかの説がある。

その@ ルイ14世の妃でスペイン王女マリー・テレーズ・デスパーニュが言ったとされる説。
「パンがないのならパイ皮を食べさせなさい」この言葉は、1737年にルソーも知っていた。

そのA 1751年、内親王マダム・ソフィーの言葉として広まったとされる説。

そのB ルイ15世の娘ヴィクトワールが飢饉の折にパンに事欠く不幸な人達の苦しみが話題にのぼった時、「でもまあ、あの人達は我慢してパイの皮を食べる事にしたらいいのに」と言ったとされる説。

しかし、1823年に出版されたプロヴァンス伯の回想録によると、彼は「パイ皮を食べさせなさい」というセリフを聞くと、自分の先祖であるマリー・テレーズ・デスパーニュ王妃を思い出すと書いている。

このセリフは、長年に渡り王族の間の決まり文句であり、マリー・アントワネットが言ったとされるのも、あくまでもマリー・アントワネットへの反感が生んだ伝説に過ぎない。

しかし、こうして憎しみをマリー・アントワネットに向ける事で民衆は、飢えや貧しさへの不満を紛わせていた。

また、1774年にフェルセン伯爵と出会った頃から、王妃のゴシップを貴族に買収された人々が文章に書くようになって民衆に広まって行った。

そして、やがてマリー・アントワネットの性的肉体に興味津々の嘲笑を投げ掛ける書き物が急増し続けた。

旧体制度末の数十年間、革命の間においてもエロティックでポルノ的な文学の層が厚く、主題はマリー・アントワネットだった。

こうした書物の中でもマリー・アントワネットは特異な位置を占めている。
ルイ16世の性的不能な事から、マリー・アントワネットの性的話の書き物が増えて行いった。

自分の子供との近親相姦、お気に入りたちとの同性愛、沢山の男たちとの乱交などポルノ的なパンフレットが飛び交っていた。

ポルノグラフティが急速に数を増やして徐々に手厳しくなって行く中でマリー・アントワネットは風刺されて卑しめられた。

1789年の革命の到来で、マリー・アントネットを攻撃するパンフレットの数は急増して行った。
それらは歌や寓話から、自称伝記、作家もの、告白や演劇に至るまで多様な形をとった。
ポルノ的ばかりで政治的含みの方はハッキリしない書物もあった。

革命期のマリー・アントワネットに対するポルノ的なパンフレットの特徴は、彼女に対する個人的嫌悪の色彩が強まっている事である。

ポルノ的な脚色とマリー・アントワネットの口から出る政治的な説教や脅しが交互に描かれて、マリー・アントワネットは貴族の退化の代表として描かれた。

1789年以後のパンフレットは、自覚的により広汎な読者に呼び掛け始めた。
こうしたパンフレットは、民衆を引き付けるのに成功した。
民衆は曖昧な状況であるからこそ、証拠なく、こうした物を信じてしまう。

民衆は印字メディアを通じて、宮廷の噂を『聞く』ばかりでなく、進行中の堕落を『見る』のである。

マリー・アントワネットは、パンフレットで『悪い妻、悪い娘、悪い母、悪い王妃』あらゆる点で怪物などと呼ばれるのが常であった。

またオーストリアのスパイとして陰謀を企んでいるなどと疑われた。

もともとフランス人は、反オーストリア感情が根強かった為にマリー・アントワネットの事を『オーストリア女』と呼んでいた。
やがて、獣になぞられる比喩に移行して『危険な獣、狡猾な蜘蛛、フランス人の血を吸う吸血鬼』などと表されるようになった。

マリー・アントワネットが非難された理由は、『公的領域で活動する女性』であった事
『外国人』であっ事が主な理由であった。

フランス革命では、どのような憲法を作るかという事が最大の問題であった。
その憲法の中で最も重要なのは『市民』をいかに規定するかという事であった。

フランス革命は、新しい権利義務を持つ近代的な『市民』を生み出した。
しかし『市民』概念の誕生は、同時に市民にふさわしくない国民『犯罪者、女性、子供、禁治産者、狂人』などの『非市民』『外国人』という概念の誕生でもあった。

革命の初期はインターナショナルな傾向が強く、多くの外国人が革命に参加して議員としても選出された。
ところが革命が危機的な状況を向かえて一層、急進的になると外国人を排除しようとする傾向が強くなって、選出された外国人議員も反革命やスパイ容疑で追放されたり処刑されたりした。

オーストリア人のマリー・アントワネットは、『外国人』であった為に排除される対象として非難を浴びせられた。

フランス革命は市民革命と言われているが、『男の革命』で女性が公的領域で活動する事を激しく拒んだ為である。
国民国家を造る為に外国人も差別された。

王妃として公的領域で行動して『外国人』であったマリー・アントワネットは、非難の的にするには都合の良い人物であり、『生けにえ』で性的差異の解消の防止と国民国家を造る為の生けにえであった。

マリー・アントワネットが処刑されてから、女性の結社の禁止と外国人の排除が始まっている。

マリー・アントワネットは、『女性』『外国人』であるという事で差別されて見せしめとされたのである。







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