1745年10月2日-1822年9月11日 レニエ・ド・ジャルジェ伯爵は、1745年10月2日にフランスのオート・ザル県ウペで生まれました。 (県庁所在地ガップGAPの南約12kmにある人口約400人ほどの小さな岩山の村(ジャルジャイュ)という村名。 ジャルジェ将軍は、革命期に忠実な王党派として王家救出劇にも関わった人物であり、このジャルジャイュの地は一時レニエ家の所領であった。 それ故、名字に「ド・ジャルジェ(ジャルジャイュ)」と付いている。 14歳の時に叔父の部隊に入隊、補給隊・近衛隊・参謀本部に配属されて、ルイ15世・16世両君の治世軍務に励む事になる。 彼が将軍になったのは1791年に少将を拝命してからなので、革命勃発以降のこと。 1787年にルイーズ・ド・ラボルト(フィリップ・ヒンネル未亡人)と再婚する。 ルイーズは王妃マリー・アントワネットの信頼厚い侍女でジャルジェイ侯爵と共に熱心な王党派として国王夫妻の傍らにいた。 バスティーユ牢獄陥落後、1791年に少将に任じられて翌年に元帥府に列度。 フランス革命下では、数多くの叛乱を鎮圧して、アントワネットの依頼を受け、フイヤン派のバルナーブとの連絡係を務める。 アントワネットがバルナーブと交わした密談や書簡はフイヤン派も自らも欺くものだったけれど、1791年憲法において立憲君主制が取られて、革命が終結に向かうように仕向けるには仕方のない事だった。 でも、革命の勢いは増して市民によるテュイルリー宮殿襲撃が起こり、この時もジャルジェ侯爵は王家と共に在った。 議会に避難するアントワネットが「じきに帰ります」と声を掛けたのは、ジャルジェ伯爵だった。 ジャルジェ伯爵は、ヴァレンヌ逃亡事件の後、アントワネットと三頭政治家の連絡係として活動して、更に王権が廃止され国王一家がタンプル塔に幽閉された後も危険を冒してフランス国内に留まり、1793年3月国王処刑後バッツ男爵が企てた救出計画の為に奔走。 アントワネットと二人の子供達、王妹エリザベートの救出計画に関わり、全員の救出が無理と分かるとアントワネットだけでも救出しようと試みる。 しかしアントワネット自身が肯んじなかった為に救出計画は中止され、その面会時にジャルジェ伯爵は、アントワネットから王弟プロヴァンス伯爵(後のルイ18世))とアルトワ伯爵宛の手紙とフランス国王の国璽、ルイ16世の遺髪、そしてフェルゼンに宛てた彼の紋章と銘句を彫って刻印された王妃の指輪を託されてフランスを後にする。 王妃の裁判では弁護人となって無罪を主張するも力及ばす。 同年、イタリアのサルディニア島に亡命して、1797年に帰国する。 ナポレオン治世の1800年にはオーストリア・ウィーンの王党派と合流して、1815年には中将となる。 ブルボン王家の復朝が見られた1822年にパリ郊外のフォントネ・オ・ローズで没す。 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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