ルイ・シャルル(ルイ17世)

1785年3月27日
フランスの波乱に満ちた状況の中で父=国王ルイ16世と母=マリー・アントワネットの次男として誕生。



王位継承者だった兄=ルイ・ジョゼフが僅か7歳で病没。
ルイ・シャルルは4歳で王太子となった。

乳母をはじめ、近侍、部屋就き、給仕、案内係、揺り篭揺らし係、用務係、銀器磨き係、洗濯女、髪結師など、シャルルの身の回りの世話をする人達が大勢いる中、幸せな宮廷生活では姉の王女マリーテレーズと共にフランス革命後に養育係となったトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌを慕い憧れた。



シャルルは、目鼻立ちが整い、赤みがかったブロンドの髪に碧眼を持った美しい顔立ちの少年。
愛嬌もあり、活発な性格で宮廷内の人々を魅了した。
母マリーアントワネットはシャルルに「愛のキャベツ」とあだ名を付けて、愛情を注いだ。
一方、神経質で慣れない物音に怯える事、軽率な面があり、嘘を付くつもりはないが想像力により話に尾ひれを付ける癖がある欠点をトゥルゼル夫人宛ての書簡に記載している。

フランス革命勃発後、国王一家がヴェルサイユ宮殿からパリに移る道中、民衆が馬車に飛び付き罵声を浴びせた。
シャルルは.窓から身を乗り出して、『グラース・プール・ママン(※ママを許して!)』と叫び続けた。

新たな住居となったテュイルリー宮殿では、宮殿に出入りする国民衛兵の子供達と衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い両親を安心させた。

1791年8月13日
シャルルが6歳の時、家族と共にタンプル塔に幽閉された。
タンプル塔では、父からラテン語、フランス文学、歴史、地理を教わり、叔母エリザベ−ト王女からは、姉と共に数学を学んだ。
数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供達が書いていると勘違いした。

この頃の国王一家は、まだ待遇良く扱われて、庭の散歩やゲーム遊びが出来た。
また、国王一家に同情した職員からシャルルに贈られた愛犬ココと過ごした(※後に生き延びたマリー・テレーズの亡命生活を供にし、1801年ワルシャワ滞在中に事故死)。

1793年1月21日
父ルイ16世が処刑される朝に『お父さんを殺さないで欲しいとお願いするんだ!
お願いですから、国民に話す邪魔をしないで下さい!』
と、幼いシャルルの叫び声が響き渡った。

ルイ16世の処刑後、マリー・アントワネットは膝まずき「国王崩御、国王万歳!」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベートと共に深々とお辞儀をした。

1793年1月28日
叔父のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)ら反革命派や亡命貴族はルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。
しかし、シャルル本人は革命真っ只中のパリで監禁された身では戴冠式を行う事も叶わず、自分が国王と呼ばれている事さえ知る由もなかった。

1793年5月初旬
恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世の診察をマリー・アントワネットは何度も要求したが拒否され続けた。
その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらず以後、ルイ17世は体調を崩したままとなる。

1793年7月3日
ルイ17世は家族と引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。



王室を汚い言葉で罵る新聞を発行する野蛮な男ジャック・ルネ・エベールから、後見人兼教育係として命令を受けた文盲の靴屋アントワーヌ・シモン(57)の元で過ごす事になった。
シモン、エベール、パリ・コミューンの指導者アナクサゴラス・ショーメットによる監視及び、貴族的なものを忘れ良き市民となる為の再教育が行われた。
彼らは、サンキュロットに見える様にルイ17世の喪服を脱がせ、革命党員の制服を着用させて「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。

やがて、教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。
またシモンは、ルイ17世を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。
暴力は日常茶飯事となり、番兵達も虐待を見るのを嫌がったというパリ・コミューン総会議事録の記載も残されている。

偶然シモンの虐待を目撃したパリ市通商取次人のルブーフは、自らの教師と判事という立場から非人道的な扱いを告発するが投獄され、後に命の危険を感じ、パリ・コミューンを退職しパリを去った。

シモンの妻ジャンヌは、ルイ17世の身の回りの世話をしたが夫の行き過ぎた虐待を止めさせる事は出来なかった。
ルイ17世は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によって、すっかり臆病になり、かつての快活さは消え去った。
この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていたスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。

更にマリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいエベールとショーメットは、彼女が不利になる証拠を作る為、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。
母と叔母はそれを見て楽しみ、近親相姦の事実があったという書類に10月6日に強制的に署名をさせる。
翌日、マリー・テレーズとエリザベートは別々にルイ17世の部屋に呼び出され、尋問を受けたがルイ17世はショーメットらのでっちあげた罪状が事実であると繰り返した。
そして、この尋問はルイ17世が家族の姿を見た最後となった。

マリー・アントワネットの処刑後、今度はエリザベートを処刑する為の証拠を作ろうとした。
既にエベールらに洗脳されていたルイ17世は、かつて叔母が行っていた密書の送り方などをあっさりと告白した。
この頃ショーメットは、常にルイ17世と過ごしているシモンが王党派に買収されるのではないかと不安になり、シモンを厳しい監視下に置いた。
この待遇が面白くないシモンは、ルイ17世に更に暴力を振るう事で鬱憤を晴らした。

2月1日
国内の王党派や外国の君主からは正式なフランス国王とみなされ、政治的に利用される事を恐れたショーメットとエベールは元は家族の食堂であった部屋にルイ17世を押し込んだ。
厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、殆んど光は入らなかった。
不潔な状況下にルイ17世を置き、貶める為に室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。
その為、ルイ17世は部屋の床で用を足す事になり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。
また、本や玩具も与えられず、蝋燭の使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。
この頃は下痢が慢性化していたが治療は行われなかった。
食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子から入れられた。

ルイ17世に呼び鈴を与えられたが暴力や罵倒を恐れた為、使う事はなかった。
監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたがルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。
その後は不潔なボロ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。
室内はネズミや害虫で一杯になっていた。

深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。
番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。
もはや彼に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。

1794年1月19日
コミューンがシモンに圧力をかけシモンは辞職、妻とタンプル塔から去る。

ルイ17世の次の後見人は指名されなかった。

以降、コミューンの派閥争いにより、
3月24日、エベールが支持者らと共に処刑。
3週間後、ショーメット処刑。

7月28日、ロベスピエールとロベスピエール派の後見人シモンが処刑された。
この日、旧貴族でジャコバン派の国内軍事最高司令官ポール・バラスがマリー・テレーズとルイ17世を訪ねた。
バラスは礼儀正しく接し、「王女/王子」と呼んだ。

バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さなベッドに衰弱したまま横になったルイ17世を目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内に驚愕した。
バラスは24歳のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にする事に成功した。

1794年9月1日
ローランはルイ17世の独房の清掃を2人の男性に行わせ、マリー・テレーズに依頼されて虱と蚤だらけのベッドを処分し、彼女が使用していたベッドを使用させた。
ローランは自らルイ17世を入浴させ、身体にたかった虫を取り、着替えさせた。
室内の家具とカーテンの焼却も命じた。

この日、ルイ17世は医師の診察を受けた。
この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色の蚯蚓腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。
ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世を散歩に連れ出すが食事の質が改善されなかった事と病気での衰弱が酷く、一人では歩けなかった。

1794年11月8日
国民公会はルジャン・バティスト・ゴマンに命じた。
ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。
ルイ17世は長く続いたローランとゴマンの親切な対応に驚いたが徐々に彼らになついた。
月末に役人のデルボイがルイ17世の元にやって来たが、もうこの頃のルイ17世は衰弱しきっており、デルボイと会話をする事が出来なかった。
しかし、デルボイは窓にかけられた柵を取り払うよう命じ、およそ2年ぶりにルイ17世は日の光が入る部屋で過ごせるようになった。
ゴマンはルイ17世の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。
しかしルイ17世の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。

この頃にはフランス国内の空気も変化し、ルイ17世への虐待や現在の待遇も国民の話題となっていた。

1794年11月26日
「世界通信」紙がルイ17世の酷い待遇が行われていた事実を公式に認める記事を発表した。

関係者らは逮捕され、国民公会に連行され、保安委員会のマテューは公式に王党色の強い新聞記事を否定し、革命支持者の為にルイ17世は一般の囚人と変わらぬ扱いを受けていると説明した。

1795年3月31日
エティエンヌ・ラーヌが世話係に加わった。
ラーヌはルイ17世はなつかなかったという記録を残している。
その後、ローランは別の役職に就き、ゴマンが後見人となった。

1795年5月8日
ローランとゴマンの再三にわたる要求により、ジョゼフ・ドゥゾー医師による診察が許可された。
ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で最も残忍な仕打ちを受けたのだ。私には元に戻すことができない。なんたる犯罪だ」と正直に意見を述べた。
毎日、午前中に往診に訪れ、ルイ17世から感謝されていた。

1795年5月29日
ドゥゾーは国民公会公式晩餐会に招待された後、急に具合が悪くなり、3日後に死去した。
彼の助手もその後、死去した事から暗殺が疑われた。

次の医師が決まるまで重態のルイ17世は治療を受けられなかった。

1795年6月6日
新たに主治医となった外科医のルイ・フィリップ・ジャン・ペルタン医師が治療に向かった。



彼は「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官を咎め、日よけを外して新鮮な空気に当たれるようにする事を命じた。
孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世は喜び、少し様態が改善した。

しかし、ペルタンは「不運なことに援助は全て遅すぎた。何の望みもなかった」と報告している。

6月7日
ルイ17世は衰弱し一時、失神し意識を失う。
夜遅くに様態が急変し、ペルタンは薬の投与指示をした。

6月8日
朝、ペルタンが訪れたが、この時、初めてルイ17世が瀕死の状態で昼夜とわず看護もされていない事を知った。
ゴマンが看護婦を求めに行っている午後、ルイ17世の意識が薄れ始め、脈が弱まり、腹部も膨張している事からペルタンは看護婦を要請した。
大量の汗をかき、意識が朦朧とし始めて、午前3時頃、激しい呼吸困難に陥りゴマンが症状を和らげようとルイ17世を抱き上げ、両腕を自らの首に回した。
しかし間もなく、長い溜め息の後、全身の力が抜けたと同時に弱く灯していた10歳の命の火を静かに消した。

幼い国王の余りにも悲し過ぎる最期であった。

独房の壁には『Maman, je(ママ、僕は…)』という書きかけの言葉と花の絵が炭で書き塗られ、残されていた。
また、塔の屋上に散歩に出た際に見つけた花を摘み取り、花好きの母の為にと、既に住人が居ない事を知らぬルイ17世が母の部屋の前にそっと置いたというエピソードが残されている。

6月9日
ペルタンはジャン・バティスト・デュマンジャン医師、ピエール・ラシュ医師、ニコラ・ジャンロワ教授を引き連れて、5時間かけて遺体解剖を丁寧に行った。

ペルタンの記録によると「胃は非常に膨らんでいた。
右膝の内側に我々は腫瘍を発見した。
そして左手首の近くの橈骨に小さな腫瘍があった。

膝の腫瘍は2オンスの灰色がかった物質を含んでいたが、それは膿とリンパ液でいっぱいだった。
手首の腫瘍にも同じような物質を含んだが、もっと濃い色をしていた」。

開頭後、脳が露になるとジャンロワ教授は「この分野に就いて40年になるが、この年齢の子供で素晴らしく発達した脳を見たのは初めてだ。博識な男性を思わせるほど完成度が高く発達している」と述べた。

胃の内部からは、腐敗臭と1パイントを超える黄色い液体が流れ出て、腸は膨れ上がり腹壁で癒着をしていた。
内臓全体と両肺付近に様々な大きさの腫瘍が見つかり、彼らは死因を「腺病質の傾向が暫くの間滞在していた為」結核が死因であるとした。
この時の死因は「結核」と報告されたが、王政復古後「極度の仕打ちによる栄養失調、衰弱」と訂正された。

死亡証明書には「故ルイ・シャルル・カペーの記録。牧月20日午後3時、10歳2ヶ月没、出生地ヴェルサイユ、住所パリ・タンプル塔、フランス人最後の国王ルイ・カペーとオーストリアのマリー・アントワネット・ジョゼフジャンヌの息子」と記載された。

国民へのルイ17世死去の発表は4日後に行われ、遺体は共同墓地のサン・マルグリット墓地に葬られた。

後にルイ17世の死を知ったマリー・テレーズは「弟を殺害した唯一の毒は捕え人の残忍な行為である」と述べた。

当時、高貴な人の遺体(特に心臓)には「聖なる力が宿る」とされて、その人を表すとされていた事から、ペルタンは検死の際、ハンカチにルイ17世の心臓を包み、コートのポケットに入れて持ち出した。
心臓は、自宅にて蒸留したワインのアルコールが塗られて書棚に隠されて保存された。
以降、数年の時を経てアルコールが蒸発し、心臓は石のごとく硬くなってしまう。

1825年5月
ペルタンが所有するルイ17世の心臓はフランス革命、7月革命を乗り越えてパリのド・ケラン大司教に託されて、大司教の図書室に心臓は隠された。

ペルタンは、翌1826年9月に死去。

その後、ルイ17世の心臓は盗まれたり、発見されたりを繰り返しながら、フランス→イタリア→オーストリア→ドイツ→スペインのマドリード公爵、第2次大戦中はマドリード公の子孫と巡り巡って、最終的にフランス王家の墓所サン・ドニ大聖堂に安置された。





王族の非運な死亡時の状況が不明であると必ず出てくるのが亡命/生存説である。

事実、自称『我こそは、ルイ17世である』と名乗り出た者が100人もいた。

その中で最も有名な人物がシャルル・ギヨーム・ノンドルフ(1785-1845)。
ノドルフは、ドイツ国籍を持っていた。
1833年にパリを訪れて「自分が支援者の助力で亡命したルイ17世である」と主張した。
しかし、誰からも信じられる事なくイギリスに追放されて、1845年オランダに移って同年死亡した。

ノドルフがルイ17世である事を示す明らかな証拠はなかったが、ノドルフの墓には『ルイ17世、フランス国王』と刻まれて、子孫は1863年からブルボン姓を名乗っている。

1950年に1度、ノドルフの墓が掘り起こされて、遺骨(右上腕骨)をオランダの科学捜査研究所で分析した結果、ヒ素中毒の痕跡が検出された。
そして、DNA鑑定の結果、残された両親のDNAとは全く異なった偽者であった。

1999年12月15日
サン・ドニ大聖堂にある「心臓」とマリー・アントワネットの母子DNA鑑定を行う為に心臓がドイツとベルギーの研究所へと送られた。

DNA鑑定の分析は、遺伝子学の世界的権威ベルギーのルーパン大学法医遺伝学・分子考古学カシマソ名誉教授とドイツのミュンスター大学法医学教室ブリンクマン教授で平行して進められた。

2000年4月19日
マリー・アントワネットと心臓の母子DNA鑑定結果の最終報告が行われた。

※DNA分析に用いた資料。
●サン・ドニ大聖堂に安置されていたタンプル塔で死亡した少年の乾燥した心臓

●マリー・アントワネットの遺髪
(カンヌの個人コレクションのメダリオン中の毛髪でマリー・アントワネットの遺髪と代々口伝されていたもの)

●マリー・アントワネットの遺髪
(ナイメーヘン大学所蔵の絹糸で固定された1房の毛髪/親族の証明書付き)

●マリー・アントワネットの姉ヨハンナ・ガブリエラの遺髪。
(マリー・アントワネットの長姉マリア・アンナの遺髪に含まれていた母親マリア・テレジアの首飾りに付いているメダリオンに納められていたもの)

●マリー・アントワネットの姉マリア・ヨーゼファの遺髪:同上

●マリー・アントワネットの姉のマリア・カロリーナの孫ルイーゼ・マリーの遺髪。
(ベルギー王室に保管されていたもの)

●ルイーゼ・マリーの娘マリー・シャーロッテの遺髪:同上

●マリア・カロリーナの子孫/ルーマニア王妃アンナの血液

●アンナの弟アンドレ・ブルボン・パルマの毛髪

●ノドルフの遺髪と遺骨(右上腕骨)

1950年に毒物分析の為に墓地から採取されたもの

ミトコンドリアDNAは、母親のDNAを必ず引き継ぎ父親は関係ない。

DNA鑑定は、ミトコンドリアDNAのD-ループ領域(HVR1及びHVR2)を分析対象として、母系解析で行われた。

母から子へは、ミトコンドリアDNAが遺伝されるのでマリア・テレジアの女系子孫には、必ずマリア・テレジアのミトコンドリアDNAが遺伝されている。
保存されていた心臓がルイ・シャルルの心臓ならば、同じミトコンドリアDNAを有しているはずとなる。

保存されていた心臓と各資料の複数箇所から、DNAを抽出して分析した結果、マリー・アントワネットの毛髪、またその姉の毛髪の物と完全に一致。
4人の孫の血液、毛髪の遺伝子が心臓のミトコンドリアDNAと一致。
この結果、「99%ルイ・シャルルの心臓に間違いない」事が200年の時を経て証明された。




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