フランス革命中、国王一家の中で唯一、生き残り、全てを見届けた王女は革命以前は、人々からフランス国王の第1女子嫡子の称号「マダム・ロワイヤル」と呼ばれて愛された。 1778年12月19日 フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの第1子王女として誕生した。 真夜中から陣痛が始まり、正午近くに産科医師ヴェルモンが王妃マリー・アントワネットの分娩を告げた。 前夜から、ヴェルサイユ宮殿に集まっていた王家ゆかりの貴族達は、我先にと王妃の寝室へと雪崩込んだ。 確実に王妃が産んだ子供である事。 特に王子の場合は、世継ぎ問題で少しでも疑わしいと内乱に発展しかねなかった事から、出産証明と内乱を防ぐ為に、この屈辱的なしきたりの中で王妃の出産は公開されていた。 王妃の寝室には、60人程の貴族と部屋の外には150人以上の貴族らが集まっていた。 騒々しさの中で出産を控えた王妃の様子を見ていたオーストリア大使のメルシー伯爵と侍女カンパン夫人は、王妃の身体を心配し続けた。 マリーテレーズの出産 寝台近くの肘掛け椅子は、見物人で埋まって、後方で見えない者は、安楽椅子や長椅子に立ち上がって見物していた。 そして、部屋の中で身動きが取れない程、大勢の貴族達が見守る中、およそ7時間、拷問のような陣痛が続き、昼近くになって痛みに耐えた王妃は王女を出産した。 生まれたばかりの王女は、体を香油で綺麗に拭き上げられ、王家伝来の絹レースの産着を着せられた。 王妃は、予め女官長ランバル公妃と決めていた合図で王女の出産と知ると、室内の熱気と緊張で気を失った。 直ちにヴェルモン医師が叫んで部屋の換気、湯の用意、瀉血の準備を指示した。 興奮して見物していた人々は、一瞬で恐怖に包まれる中、国王自らが慌てて窓を開け放した。 しかし、ヴェルモン医師が指示した湯は直ぐには届かず、仕方なく、湯の用意が無いままに外科医師が王妃の足にメスを入れて瀉血した。 王妃が目を開けて、命に別条がないと分かると部屋中にいた見物人達は歓喜に湧いた。 従者達が見物人を部屋から出す事に苦労する中、ランバル公妃だけが王妃の無事を知って、安堵から気絶して部屋から運び出された。 出産立会人のメルシー伯爵は、産後1時間も経たないうちにウィーンに最初の知らせを送った。 そして当時、王家に子供が生まれると伝来の祝砲が打たれた。 女子なら21発/男子なら101発の祝砲が鳴らされた。 午前5時、集合していたパリの役人達は、12時半に軍管区司令官の小姓から無事に王妃の出産の知らせを受けた。 そして、午後13時5分にブヴィ伯爵が国王の代表として、正式に内親王マリー・テレーズの誕生を知らせた。 夕方になるとパリで祝賀会が始まり、赤と黒の衣装に身を包んだ高級官吏達は、花束を持って市役所前の広場に集まった。 広場には、巨大な松明が燈されて、花火が打ち上げられてスイス親衛隊、高級官吏等らは、広場を3周回って祝砲が打ち鳴らされた。 待望の世継ぎとなる王太子ではなかったが、国王夫妻に子供が誕生した事は国民にとっても喜ばしい事だった。 マリー・テレーズ王女の名前は、マリー・アントワネットが敬愛する母でオーストリアの女帝マリア・テレジアの名前をフランス語読みにして付けられた。 マリーテレーズ王女 第1子が世継ぎとなる王子ではなかったものの、マリーテレーズの誕生は国王夫妻に幸福をもたらした。 特に王妃は、それまで行き場のなかった愛情を惜しみなく与える喜びを知って、小さな王女の成長に胸をときめかす、優しく賢い母親の面を見せて行く。 マリーテレーズは幼女の頃から、ブルボンフ家とハプスブルグ家の血を引いている事に誇りを持ち、プライド高い王女であった。 9歳の頃、ヴェルモン神父から、母が落馬したが無事だったという話を聞かされた王女は、「もし母が死んだら、何をしても自由だったのに」と答え、神父を唖然とさせた。 養育係が誤って王女の足を踏みつけた事があった。 その晩、足の負傷に気付いた養育係は王女に負傷を訴えなかった事を問いた。 すると王女は、「貴方あが私に怪我をさせて、私が痛がっている時、貴方が原因だと知ったら、貴方の方が傷付いたでしょう」と答えたエピソードがある。 王女は幼女の頃から、自分の体重と同じ位の重さのパニエを身に着けて、公式行事や社交場に顔を出していた為、母への悪口を耳にしていた。 1789年5月5日の三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公爵(後のフィリップ・エガリテ)や民衆を憎んだ。 1789年8月13日 王女が10歳の時、優雅で不自由のない生活から一変、家族と共にタンプル塔に移されて、幽閉生活が始まる。 タンプル塔での監視は、厳しいものの家族と共に過ごす事も出来た。 母と叔母エリザベートとは一緒に読書、散歩、編み物、刺繍を楽しんだ。 父・ルイ16世が処刑されてからは、弟の王子ルイ・シャルルとも革命政府によって、引き離された。 マリー・アントワネットも夫ルイ16世を亡くして以降、幼い息子のシャルルと引き離されて、悲しみが癒えぬままコンシェルジュリー牢獄へと移送。 王女は1人となって以降、母、弟、叔母らが死去した後さえも知らされずに幽閉生活を送る。 王女は国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、国民公会面会者からの質問には全く答えなかった。 また、幽閉されてから病気になった弟の健康状態を常に気にかけ、ルイ・シャルルに治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。 王女の部屋では、下の階に幽閉されていたルイ・シャルルの泣き声がよく聞こえていて、幼い弟を案じて何度も『弟の面倒を見させて欲しい!』と懇願していた。 また、『マリー・テレーズは、世界で1番不幸な人です。 母についての情報を手に入れる事が出来きず、ましてや一緒になる事は出来ません』という悲痛な思いが壁に縫い針とハサミの先を使って、彫り込まれていた。 王女の慰めは、エリザベート王女が残した毛糸で編み物をする事とカトリックの祈祷書と信仰であった。 1795年7月 ロベスピエール処刑後、国民公会政府末期には待遇が良くなり、身の回りの世話をするアルザス出身のシャトレンヌ夫人が雇われた。 30歳のシャトレンヌ夫人は、王女の為に衣類、筆記用具、本などを差し入れたり、庭園を散歩をする許可を得た。 また、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」をペットとして部屋に呼んだ。 シャトレンヌ夫人は、硬く口止めされていたが次第に王女が気の毒になり、伏せられていた母と叔母の処刑を知らせた。 また、誰とも殆んど会話をする事のないまま、2年近くを過ごした王女の発声異常の矯正手助けした。 しかし、王女のガリガリと話す発声異常は生涯治る事はなかった。 王女は、シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼んだ。 この頃のフランス国民は、幽閉されたままの王女に同情的になっていた。 王女が散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーは近くに部屋を借りて、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して王女に手紙を送った。 タンプル塔近くのボージョレ通りは、王女を見学しようとする野次馬で溢れた。 1795年7月30日 フランス共和国政府がオーストリアの神聖ローマ皇帝フランツ2世に提示した条件は、オーストリアの捕虜になっている共和党員5人の釈放。 フランツ2世は条件を受け入れて、フランス人捕虜との引き換えによる、マリーテレーズ王女の身柄引き渡しで合意した。 1795年9月 元養育係のトゥルゼル夫人と娘ポーリーヌと面会、まもなく釈放されウィーンに送られる事を話す。 また、弟シャルルが使った部屋を案内した。 1795年12月19日 17歳の王女は、オーストリア捕虜5人と引き換えに3年2ヶ月ぶりに釈放された。 その捕虜5人の中にヴァレンヌ事件で国外逃亡を図った国王一家を見破り、逃亡を阻止した熱烈な共和党のドルーエがいた。 恨みが深いドルーエが、王女の釈放と引き換えに自由になったのを知ったのは、後の事だった。 僅かな持ち物を鞄に詰めた中には、母と一緒に幽閉部屋で暮らしていた時に壁布から糸を紡いで作った靴下止めもあった。 それは王女にとって、掛け替えのない母の遺品となった。 そして、王女が嫌っていた元養育係のスシー夫人と娘、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出た。 タンプル塔を出るマリーテレーズ タンプル搭は、後の1808年にナポレオンの命令で取り壊された。 1796年1月9日 王女はウィーンのホーフブルク宮殿に到着。 しかし、ナポレオン軍が北イタリアで優勢となるとプラハ近郊に夏頃まで避難した。 ウィーン宮廷では、亡命貴族支援とブルボン家再興のため尽力し、フランツ2世は王女を丁重に扱い、手当も与えたが手紙や面会人を厳しく監視した。 しかし、王女は時にレモンの果汁で手紙を書く(あぶりだし)など、非常に慎重に文通や送金を行った。 1797年 文通を続けていたド・シャトレンヌ夫人から出産した男児の命名を願う手紙が届く。 王女はシャルルの名を提案、皇帝の監視を逃れる為、短文の返信となった。 この年、ナポレオンがウィーンに進軍。 フェルセン伯爵は、マリーアントワネットが子供達の為に親類、友人に分散して残した遺品の金と宝石類を回収。 その殆んどをフランツ2世が手に入れていたが、フェルセンは王女が相続できるように各国の宮廷を奔走した。 1797年2月24日 フェルセンとの謁見でフランツ2世は、王女が相続すべき財産の所有を認め、後に王女の持参金にするとフェルセン伯に答えた。 フランツ2世は、王女を自分の弟カール大公と結婚させて、フランスの利権を手に入れようと考えていた。 しかし、王女はブルボン家の叔父が薦める父方の従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選び、ヨーロッパ大陸の味方が欲しかったフランツ2世も黙認した。 ウィーン宮廷では、ナポリ王国出身の従姉、フランツ2世の皇后マリア・テレジアと互いを嫌いあったが、皇帝の妹マリア・クレメンティーナ大皇女、マリア・アマーリア皇女とは親しく、1798年にマリア・アマーリアが死去した際には非常に悲しんだ。 スペイン・ブルボン家のカルロス4世はマリー・テレーズに年俸を与えると同意し、フランツ2世はミタウまでの旅費を負担すると約束した。 トリーア選帝侯クレメンス・フォン・ザクセン(ザクセン選帝侯(後に国王)フリードリヒ・アウグスト3世の叔父)から、革命以前に夭逝した弟ルイ・ジョゼフの肖像画とルイ16世が断頭台で着用した血で汚れた肌着を受け取り、ミタウへと旅立った。 1799年/春 王女は叔父ルイ18世の亡命地ロシア領のミタウ城に到着。 父の処刑に立ち会ったエッジワース神父と対面。 1799年6月10日 アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚。 ルイ18世は、結婚祝いにルイ16世夫妻の結婚指輪を王女の手の平に載せた。 新郎新婦は抱き合って泣いた。 ロシア皇帝パーヴェル1世は、署名入りのロシアの結婚証明書に豪華なダイヤモンドのアクセサリー一式と金が詰まった財布、帽子とガウンを贈呈。 王女の勇気を褒め称え、フランスに帰国できるまで、ロシア領滞在を認める手紙も添えられていた。 この頃の王女について、ルイ18世は「両親にそれぞれ似ており、身長は母親ほど高くないが、可哀想な妹よりは高い。 軽やかに優雅に歩き、悲運を語る時、涙は見せない。 善良で親切で優しい」と弟アルトワ伯宛ての手紙に記した。 夫アングレーム公爵 王女の結婚が亡命先から始まり、ナポレオンの出現によってフランスに戻ったり、再び亡命の旅に出たりと、結婚後も亡命生活を余儀なくされた。 1813年1月 王女は結婚13年目にして懐妊し、王室は喜びに包まれる。 しかし、妊娠がかなり進んだ時期に流産してしまう。 その後、王女が妊娠する事はなかった。 1814年4月29日 コンピエーニュに到着した際、トゥルゼル夫人、結婚してベアルン伯爵夫人となっていたトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌと泣きながら抱き合い、再会に歓喜した。 パリに戻ってからの王女は、幼女の頃に辛酸を舐め尽くしたテュイルリー宮殿での暮らしを嫌った。 そこには、皇帝ナポレオンにより、あちこちにNと刻み込まれ、蜜蜂と鷲の装飾が付けられていた。 王女は、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で名前を呼び、彼らを怒らせた。 新興貴族達は、王女がイギリスの田舎臭い格好でパリに戻ったと嘲笑した。 ルイ18世からは「人前でムスッとした顔をしない事、垢抜けない服装をしない事、人前では紅ぐらいを付けなさい」と叱られた。 また王女は帝政下で成功した、かつての仲間を嫌った。 母の主席侍女だったカンパン夫人が学校を開き、ボナパルト家の人間を教育していた事を知ると、彼女との面会も拒んだ。 反対に自分が苦しい時に尽力してくれたポーリーヌには「夫と子供と宮廷に来て下さい」と手紙を送り、当時ナポリにいたシャトレンヌ夫人には、年俸を定め、自分を訪ねるよう手紙を書き、息子のシャルルには親衛隊関連の仕事を世話した。 ナポレオン失脚後は、王政復古してプロヴァンス伯爵がルイ18世として即位した事で王女もフランスに帰国した。 1824年 ルイ18世が病死。 アルトワ伯が国王シャルル10世となり、マリーテレーズ王女は、フランス王太子妃となる。 マリーテレーズは、亡き母が投獄されたコンシェルジュリー牢獄で、母が最期の日々を過ごした独房部屋に礼拝堂を設置した。 亡き母の為に設けられた礼拝堂 1825年7月24日 差出人不明のマリー・テレーズ殺害予告文を議会で大臣に見せる。 未だマリーテレーズは、政敵から狙われていた。 しきし、彼女を慕い訪問する人々は絶えなかった。 マリーテレーズは王太子妃の身分となっても、45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫いた。 1830年 シャルル10世の治世が絶対王政だった為に国民の反感をかい、(7月革命)によって、またしてもシャルル10世一家は長い亡命生活を送る事となった。 パリでの暴動の後、マリーテレーズはヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を売却。 亡命準備をしたマリーテレーズは、親友ポーリーヌと泣きながら別れた。 別れの際にマリーテレーズは、母の遺品の印章をポーリーヌに差し出し、2人にとっての今生の別れとなった。 再び亡命先のプラハでは、フラドシン城を用意して貰い、シャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させて生活した。 マリーテレーズは、此処で刺繍をして静かに過ごし、その刺繍はオークションに出され、収益は恵まれない者に寄付された。 1836年 オーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ移る。 その後、ゴリツィアのグラッファンベルク城へ転居。 此処で義父シャルル10世(1836年没)、夫アングレーム公(1844年没)を看取った後、ウィーン郊外のフロースドルフ城へ転居。 散歩と読書、刺繍と祈りを日課に静かに暮らし、刺繍はオークションにかけられ、売上は貧しい者達に寄付された。 1851年10月19日 マリーテレーズは肺炎の為、72歳で死去。 夫との間に子が無かった為、これによってルイ16世とマリーアントワネットの血筋は途絶える事となった。 華やかなロココの宮廷から、革命の地獄までを見せられた非運の王女は、美しい母の面影を宿しながら、笑顔を見せない生涯を閉じた。 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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