ヴィジェ・ルブラン



ヴェルサイユ宮殿や美術館に現存するマリー・アントワネットの肖像画の多くは、18世紀に人気を誇った宮廷女流画家ルブラン夫人によって美しく描かれた。

その多くの肖像画の中から、マリー・アントワネットとルブラン夫人に深く纏わる5枚の肖像画のエピソードの紹介。



ルブラン夫人は、独学で絵画を学んで15歳で本格的な画家になった。
既に彼女の描く絵は、高貴な婦人達の間で人気となって、生涯で660枚の肖像画を描き残している。

ルブラン夫人が24歳の時に運命の出会いが訪れた。
ルブラン夫人の評判を聞いたマリー・アントワネットから肖像画の依頼が届いた。
ルブランは王妃と会った時の印象を回想録に記している。

『王妃様は、若さと美しさに溢れていました。
温和で優しさを称えた瞳と完璧な気品。
肌は透き通り、輝き、王妃様の肌を表現する、どんな絵の具も私は持ち合わせていませんでした。

王妃様は、大柄で良く発達していらっしゃいましたが、ごつい感じではありませんでした。
腕は素晴らしい美しさで、手は小さく、形が良く整っていました。
ことに足首が魅力的でした。
歩きぶりの良さは、フランス1で首筋をスッと伸ばした気品の良さによって、宮廷の大勢の方々の中でも直ぐに王妃様と分かりました。

王妃様にお会いになった事の無い方には、あの溢れるような優雅さと気品の高さが1つに融け合った美しさというものを理解させる事は、とても困難です。

王妃様のお顔立ちは、面長でオーストリア王家に特有の楕円形でした。
お眼は大きくはなく、色は青と言ってよく、穏やかな眼差しは、お心の豊かさを表し、鼻は優雅で形よく、唇は心持ち肉厚に感じられましたが、口が大き過ぎた訳ではありません。

お顔の中で1番魅力的なのは、その輝かしいお肌の色でした。
こんなにも輝かしいお肌の色は、私、他に拝見した事もございません。
何しろ、その透き通るようなお肌には、影も差すまいと思われる程でした』


こうしたマリー・アントワネットの外見上の美しさに加えて、広い心と愛くるしさを備えており、近寄って来る者すべてを魅了した。

そして、画家としてのルブラン夫人の人気の秘密は卓越した技術にあった。
肌が透明感に溢れて、水々しい表情で描かれる事。

美しい生地の光沢や質感も細やかに描写されて、巧みな色使いで微妙な色の違いを鮮やかに再現できる技術を持っていた事。

自然な美しさを引き出すコツとして、友達のように話し掛けて、リラックスさせてあげる事。

絵を描いている間中、誉めてあげる事。

更に気持ち良くモデルを努めて貰う為に足元や肘掛けにクッションを置いたり、自分よりも高い位置に座らせるなど様々な工夫をした。

ロココの女王と言われたマリー・アントワネットは、髪を高く結い上げて鳥や花、時には軍艦模型など奇怪な飾りを付けた姿で描かれる事が普通だった。

しかし、ルブラン夫人は、王妃を重々しく装飾過多のファッションから解放して、軽やかなドレスに身を包む姿で描いて、王妃の魅力を発揮する心優しさと慈愛の溢れたアントワネットの心までも美しい肖像画として描き上げて行く。





ルブラン夫人が初めて手掛けた王妃マリー・アントワネットの肖像画。

この頃のマリー・アントワネットは、宮廷生活で孤独な日々を過ごしていた。
美しさとは裏腹に寂し気な王妃を見抜いたルブランは、魂心の力を込めてカンヴァスに向かい、白い豪華なサテンドレスに身を包み、華やかで美しい王妃の姿を描き上げた。

そしてマリー・アントワネットは、それまでのどの画家が描いた肖像画よりもルブランの事を気に入って、オーストリアの母マリア・テレジアへ、この肖像画を送った。

これ以後、ルブラン夫人は王妃にとって、1番お気に入りの宮廷画家になって行く。



少しずつ時代が革命へと近付いて行く中、王妃マリー・アントワネットは念願だった子供を出産した。
しかし、宮廷での孤独を癒す事が出来ずにヴェルサイユ宮殿を離れて、豊かな自然に囲まれたプチ・トリアノン離宮に引きこもるようになる。

この離宮は、自然溢れる故郷オーストリアを彷彿させる王妃にとって唯一、心休まる場所だった。

そして、王妃とルブラン夫人は時間を見つけては心いくまで語り合った。
同い歳という気安さもあって、ありのままの心を語る王妃にルブラン夫人は深い共感を覚えた。

そして、ルブラン夫人は宮廷で見せる高貴で威厳ある姿とは違い、本当は親しみ易く優しい素顔の王妃を描いた。



白いモスリン(綿や羊毛で織った薄地の織物)製のシュミーズドレスに身を包み、麦藁帽子を被り、王妃が大好きな薔薇を手にし、普段は決して見せる事のない、くつろいだ表情を浮かべた王妃を描かいた。

そこには、威厳に満ちた近寄り難いフランス王妃ではなく、飾らない1人の女性を描いた。
当初、この肖像画はルブラン夫人が個人的な思いで描いた作品で公にするつもりなどなかった。

しかし王妃は、この描かれた肖像画を大変、気に入ってサロンに出品する事にした。

ところが周囲の勘違いから、激しい非難を浴びる騒動が起きた。

「王妃は、なんて服を着ているんだ!」

「王妃にあるまじき、下品な姿だ!」


この肖像画を見た人々は、王妃は下着姿だと勘違いをしていた。
王妃にとっては、お気に入りのシュミーズ風ドレスだった。
しかし、当時としては、これが下着に見えてしまい大スキャンダルスになってしまった。

結局、この肖像画は直ぐに取り外さらて、代わりにリボンとフリルが贅沢にあしらわれたドレスに宝飾品を身に付けた、マリー・アントワネットの最も代表的な肖像画となる『薔薇の花を持つ王妃』として描き変えられた。



騒動後、直ぐさま謝罪に出向いたルブラン夫人に王妃は語り掛けた。

『貴女が悪いのではありません。
この絵こそ、私が国民に見せたい姿だったのです。
ただ王家のイメージにこの絵が合わなかっただけなのです』


この騒動で王妃がルブラン夫人を責める事はなかった。

このモスリン風ドレスと麦藁帽子をデザインしたのは、王妃お気に入りのデザイナーのローズ・ベルタン
麦藁帽子の名前は「シャポー-・ア・ラ・カラヴァン」。
高さ75cm、回りが1m50cmもあった1個/84万円の品だった。

1783年にグレトリ作の「カイロの隊商」という劇に用いられて、脚光を浴びた事から、この麦藁帽子は大流行した。
そして、この頃から、流行は大きな髪型から大きな帽子へと移り変わった。

そんな様々な誹謗中傷が襲ってもマリー・アントワネットは、周囲の目も気にせずにプチ・トリアノン離宮の「王妃の村里(アモー)」で自由奔放に過ごしていた。



王妃の不人気を決定付ける首飾り事件が発覚して、一層、王妃は国民からの反感を買って『赤字夫人』と言われて、繁栄し続けて来たブルボン王朝にも次第に陰りが見え始める。

更にルブラン夫人に対しても『王妃に取り入った画家』と嫉妬が集まって、ルブラン夫人も非難対象となって行く。

王妃は国民から『赤字夫人』と呼ばれるようになって、次第に苦しい立場に追いやられて行く中でルブラン夫人は、王妃の人気回復を願って心血を注いで描き上げた。



ルブラン夫人は、王妃のイメージを変える為に気品溢れた優しい王妃を温かな母としての魅力も兼ね備えた女性として、愛らしい子供達と共にイタリアの聖母子像の構成を取り入れて、慈愛に満ち溢れたた姿に仕上げて描いた。
そして、この肖像画は人々に喝采を持って受け入れられた。



フランス革命後、ルブラン夫人は亡命先で王妃マリー・アントワネットの死を知らされた。
深い哀しみを抱えたルブラン夫人は、革命後もパリに戻る事はなかった。

そして、王妃の死から、7年後に1枚の肖像画を描いた…。



質素な衣装に身を包み、穏やかな表情を浮かべる1人の女性は、ルブラン夫人だけが知っていた素顔の王妃マリー・アントワネット。
その姿をただ1人残された王妃の娘・マリー・テレーズの為に描いた。

死を前にしているにも係わらず、王妃は穏やかな表情で優美で優しさに溢れている姿がルブラン夫人の心の中にあったマリー・アントワネットの本当の姿だった。

この肖像画を受け取ったマリー・デザインは、ルブラン夫人に手紙を書いた。

《貴女の才能のお陰で、私は愛しい母に再び会う事が出来ました。
貴女の絵は、決して忘れる事のない、私の心の中にある母、そのものでした》



マリー・テレーズ

生涯に渡って、マリー・アントワネットの肖像画を描き続けたルブラン夫人が描こうとしたのは、歴史の波に翻弄されながらも懸命に生きた1人の女性の真実の姿だった。










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