1754年8月23日 午前6時、ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)は、父=ルイ・フェルナンデンと母=マリー・ジョゼフ・ド・サクスの三男として誕生した。 オーギュストが7歳の時に兄のジョゼフが結核で病死。 父フェルナンデンも36歳で死して、11歳でフランス王太子(ドーファン)となった。 ルイ14世やルイ15世の派手さを好む血は、オーギュストには流れなかった。 父似の地味で真面目で几帳面、信仰心の篤い人で理路整然としていて、しっかりとした意見を持っていたにも拘わらず、寡黙で優柔不断だった為に長所が理解されにくい人だった。 また、大変な綺麗好きで狩猟の後、2槽の浴槽を用意して、1槽で石鹸を泡立てて体を洗い、もう1槽の綺麗な湯で体をゆすぐという当時としては、珍しい風呂の入り方をしていた。 ルイ14世の積極政策を受け継いだルイ15世は、領土を得ていたが政治に無関心で寵臣ショワズールや愛妾ポンパドゥール夫人に任せたままで、既に財政も逼迫させてフランスの衰退を招いていた。 ポンパドゥール夫人は、ブルジョワ階級の娘として貴族の子女以上の教育を受け、知的で陰の権力者とも呼ばれたが42歳で死去した。 その後、娼婦出身のデュ・バリー夫人がルイ15世の愛妾として、宮廷に入るとデュ・バリー派とショワズール派に別れて対立した結果、ショワズール派は失脚した。 出目の悪い娼婦上がりのデュ・バリー夫人が公式寵姫として、宮廷トップに君臨する程にルイ15世時代の政治は乱れていた。 1774年5月10日 オーギュストは、19歳の若さでフランス国王に即位する。 18歳のマリー・アントワネットと共に若くして、重責を担う事に不安を感じた2人は、抱き合って泣いたと言われている。 既に即位当時、フランスはヨーロッパでの領土拡張戦争、新大陸やインドでのイギリスとの植民地抗争などで深刻な財政難に見舞われていた。 1775年6月11日 国王として即位1年後、戴冠式が厳かにノートルダム大聖堂にて挙行された。 ルイ16世の戴冠式 前年の秋に国民の不満が募る中、財務総監を更迭し、新たにテュルゴを任命するなどの人事刷新を行った結果、国務は円滑に行われるようになり、歴代フランス王の戴冠の秘蹟に則って、聖別式が執り行われる事になった。 金色に輝く大聖堂のバルコニー席から、王妃マリー・アントワネットをはじめ、貴族、廷臣、国家の有力者が見守る中、ルビーとエメラルドを散りばめた王冠が78歳のランス大司教の手でルイ16世の頭上に載せられると場内は感動の渦に包まれた。 プロヴァンス伯爵、アルトワ伯爵、オルレアン公爵、シャルトル公爵、コンデ公爵、ブルボン公爵が、貂の毛皮で縁取られ裏打ちされた高雅な紫の公爵マントに冠を着けて、6人の聖職者と共に王を守るように取り囲んでいた。 その中央をルイ16世が貂の毛皮の総裏の一際、荘重なマントを羽織って、高廊の階段をゆっくりと上って行った。 先導する陸軍最高司令官のクレルモン・トネールは、大司教より更に歳を重ねた84歳。 フランスの歴史を見届けようとする古老の手には、シャルルマーニュの剣が象徴的に握られている。 「国王の永久に生き給わんことを!」 壇上の大司教と王族が代わる代わる王を抱擁して、三度叫ぶと大聖堂の扉が開け放たれた。 その瞬間、数百羽の小鳥が飛び立ち、待ち構えていた群集が身廊に雪崩れ込み、「国王万歳!ノエル!ノエル!(※ノエルは、クリスマスの意だが、国家の祝典には、この言葉が叫ばれた)」と口々に叫んだ。 フランス近衛隊の祝砲がフランスの町に響き渡ると呼応するように全教会の鐘が一斉に鳴された。 群集の叫び声は更に高まり、臨席する人々の歓声と1つになって、大聖堂にこだまし、貴族達の心を強く揺り動かした。 マリー・アントワネットは、2階バルコニー席で女官達と見守り、余りにも厳かで美しい戴冠式に感動し、母マリア・テレジアに「涙がとめどなく流れました」と手紙を書いた。 また、感涙に咽ぶマリー・アントワネットの麗しい姿に万歳の叫びと賞賛の割れるような拍手が贈られた。 1778年2月 アメリカ独立戦争において、ルイ16世はアメリカ軍が優勢になったのを見極めて、最初にアメリカを承認して同盟を結び、イギリスに宣戦した。 アメリカ大陸に於ける植民地回復の好機と考えたからであった。 しかし、アメリカ独立戦争への参戦によって財政難は決定的となり、その危機を逃れる苦肉の策として、後に三部会を招集する。 1787年 寛容令を出して、戸籍上の身分が無かった者に対して身分を認めて、信教の自由に繋がる画期的な政策を行った。 また、水の出し入れが出来るドックの建設、刑罰の人道主義を推進して従来まで行われていた拷問を禁止した。 不器用で優柔不断な面も持ち合わせていたが、歴代の君主とは違って、頭脳明晰で数学や物理が得意で地理、歴史、化学、ラテン語・英語・イタリア語・スペイン語が堪能。 非常に勉強熱心で外国の新聞にも目を通し、ヨーロッパ各国の政情に精通していた。 歴代の国王には、公妾として公認の愛人を持つのが普通でルイ15世には60人以上の私生児がいた。 しかし、優しいだけのルイ16世は公妾を持たなかった。 公妾を持たなかった事で全ての中傷が国王ではなく、外国人の王妃マリー・アントワネットに集まった。 フランス革命が勃発するまでの国民からのルイ16世の評判は悪くはなかった。 しかし、慢性的な貧困に苦しむ国民の不満と怒りの矛先は、中傷ビラで「赤字夫人」と呼ばれたマリー・アントワネットに向けられていた。 1789年7月14日 国王政府の軍隊集結によって緊張が高まる中、国民に人気のあったネッケルが罷免された事で、怒った民衆が火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃した事が発端でフランス革命が勃発した。 1789年10月5日 食糧難に苦しみ激昂したパリの6000人の女達がパンを求めて、ヴェルサイユ宮殿まで行進して(ヴェルサイユ行進)、国王に人権宣言への署名とパンの配給を迫り、終には国王夫妻をパリに連れ戻した。 この出来事によって、王室は100年ぶりにパリへと戻って、チュイルリー宮殿に移された。 それに伴い国民議会もパリに移り、革命の舞台はパリ市民の眼前に移る事になった。 1791年6月21日 国王は家族と国外亡命(ヴァレンヌ逃亡事件)を図って失敗して、国民からの信頼を失い王権が停止された。 その後、フィヤン派のバルナーヴやラファイエットは、国王の存在の上で議会制を敷く立憲君主政の樹立を目指して憲法を制定した。 国王はそれを容認しながら、王妃を通じて尚もオーストリアなどの外敵と共謀して革命の転覆を狙った。 そして、立法議会でジロンド派が対オーストリア開戦を主張して、可決されると国王はフランスが負ける事を期待して、開戦を承認した。 1792年8月10日 外国の革命干渉軍の脅威が迫る中、パリのサンキュロットが決起して、チュイルリー宮殿が襲撃(8月10日事件)されて、国王一家はタンプル塔に幽閉された。 1792年9月21日 男子普通選挙で選出された国民公会が王政の廃止を決議する。 1792年9月22日 フランス共和国・第1年と称する事になってブルボン王朝は一旦、中断される事となった。 1792年12月11日 国民公会の法廷が始まり、国王の称号は『ルイ・カペー(平民名)』と呼ばれる事になった。 国王の裁判は、ジロンド派と山岳派の間で激しく議論された。 ジロンド派は、処刑による外国の感情悪化を恐れ、まだ外交上の手札と出来ると考えて処刑に反対。 山岳派は、共和政・人民主権の立場から国王処刑を主張。 25歳の若き革命家サン・ジェストは、『国王の裁判など有り得ない。 人は罪なくして、王たり得ない。 つまり、王の存在は、それ自体が悪であり、人民主権とは共存できないもの。 王が犯罪を犯すと言う事は、王権神授説を受け入れて認めるか、敵として処断するかの2つに1つで、その中間は認められない。 この男は、王として統治すべきか、死ぬか、それ以外は有り得ない』と後世に残る処女演説で断じた。 革命指導者ロベフピエールは、『ルイは裁判の対象にさえならない。 共和政が樹立された事で王の存在は許されない。 祖国は生存すべきものだから、ルイは死すべきである』と述べた。 裁判中に記したルイ16世の遺書 国王の弁護側には、自ら、国民公会に手紙を書いて弁護人になった租税法院長、国務大臣を務めたクレチアン・ギヨーム・ラモワニョン・ド・マルゼルブを含む3人の弁護人がいた。 マルゼルブが弁護人を申し出た事は自殺同様の危険な行為だったが、彼が国民公会に宛てた手紙には、国王に対する深い敬愛の情が込められていた。 ド・マルゼルブ 国王はマルゼルブに対し、「余は常に国民の幸福を願って生きて来た。 教育が終わった時、余はまだたく さん学ばなくてはならない事があると感じた。 余は自分に欠けている教育を獲得する為の計画を作成した。 余は英語、イタリア語、スペイン語を学 びたいと思い独学で学んだ。 余がもしまだ玉座を占めているなら、それを貴殿とわかち、余に残されている半分の玉座とふさわしくなるでありましょうに」とマルゼルブに感謝した。 2人目の弁護人は、高等法院司法官で三部会では第三身分代表として参加し、ミラボー伯が死去した時、立憲議会の議長としてラファイエットと共に先 頭を歩いた寛容派のフランソワ・ドニ・トロンシェ。 3人目はロマン・ド・セーズ弁護士。 彼が国王の弁護をする演説において、「諸君の審判に歴史がどのような審判を下すか考えてみるがよい」。 ド・セーズの主張は、絶対王政の下、国王は不可侵であっ た為、国王として行った事は、法律上、裁く事は出来ない=違法裁判というものであった。 国王が「罪なくして死ぬ」と王妃共々殉教者としての最期を演出してギロチンに掛けられたのも、この理に基づく。 更にド・セーズは、革命前の国王は国民を愛し、そして優れた治世にも言及。 ジロンド派を代表して、ヴェルニオが国王の不可侵権が憲法で保証されている以上は、国王を裁く事は不可能であると主張した。 しかし、ジロンド派も死刑に投票する議員がおり、国王を救おうと (政治目的から)した割には統制が取れていなかった。 1793年1月14日 国王裁判の評決について、各議員が壇上に登って口頭で意見を述べるという形式で最終決定が行われた。 国王の有罪は全員一致で認められ、人民への上訴は否決された。 1月16日 夜、その刑罰を決める投票が始まって24時間続いた。 721人の議員のうち、死刑賛成=387/反対=334 賛成者の中の26名は、執行猶予について検討すべきと条件を付けた。 この26票を反対側に数えると賛成=361/反対=360 この賛成票に1票を投じたのは、パレロワイヤルに反王室派を集めていた国王の従兄弟オルレアン公が偽名で「フィリップ・エガリテ」と名乗って、自由主義貴族として、国王を死に導く死刑賛成を投じたと言われている。 1月18日 執行猶予についての投票が行われた結果、380/310で否決されて国王の死刑が確定した。 午後14時、タンプル塔の国王に判決の報告をする為にガラ法務大臣、エベール代理官、マルゼルブ弁護士が到着。 悲痛に打ちのめされたマルゼルブは、国王の姿を見るや否や床に崩れ落ち、涙をとめどなく流した。 その姿から全てを察した温厚な国王は、これまで自分の為に努力してくれたマルゼルブに感謝の言葉を告げた。 処刑判決を告げられても国王は微々たる動揺も見せず、冷酷な男だと誰からも恐れられていたエベール代理官でさえも感動し、後年、その時の思いを綴っている。 「自分の弁護をかって出たマルゼルブの身を案じていた国王は、彼は稀にみる冷静を保ちながら判決を聞いていた。 穏やかであり、威厳、気品、偉大さを持っていた。 彼の視線にも態度にも、人を超えるものが感じられた。 感動の涙をやっとの思いで堪えた」とエベールは書いている。 王妃はタンプル塔の外で叫ぶ声を聞いて驚愕した。 『国民公会はルイ・カペーが死刑に処せらるべき事を決定す。 処刑は囚人に通知した後、24時間内に行わるべし』 午後20時、泣き続けた王妃と家族に国王との面会許可が下る。 階下の食堂で王妃とルイ・シャルル、王妹エリザベ−トとマリーテレーズが現れた。 4人の役人達は、最後の別れを家族だけで過ごせるように部屋の外から監視して、介添えの司祭エジウォル・ド・フィルモン神父が部屋に残った。 ド・フィルモン神父 家族との別れ 王妃と家族達は国王に縋り付いて、塔の外まで聞こえる程の悲痛な泣き声が15分間、止む事がなかった。 国王は落ち着いた態度で幼いシャルルを膝の上に抱き上げて、『決して、国民達に復讐しょうなどと考えてはいけない』と、シャルルの手を挙げて誓わせた。 そして威厳ある態度で家族との最後の時間を過ごした。 午後22時15分 国王が立ち上がるのを合図に家族は去らなくてはならなかった。 国王が戸口に向かうと王妃は泣きながら、国王を抱きしめた。 国王は『明日の朝8時には会える』と答えた。 また、シャルルは『父が死なないで済む様にお願いだから、パリの委員に会わせて!』と、役人に懇願する叫び声が塔内に響き渡った。 そして、悲しみの余り失神する王妹を国王の侍従クレリーは目撃していた。 部屋を出て行くルイ16世 部屋に戻った王妃はシャルルを寝かし付けて、服を着たまま夜を明かした。 翌朝、国王に会うまでの長く寒い夜を悲嘆に暮れて、過ごした王妃の姿を娘マリーテレーズは、忘れる事はなかった。 王妃にとって、国王は優しく穏やかな愛を捧げてくれた夫。 情熱的な愛ではなくとも、尊敬と感謝を込めた情愛を抱いていた。 二人は人生で最も苦難に満ちた時を共に生きて、初めて真実の愛を得た。 現世で2度と会う事は出来ないが王妃自身は、もう1度、会えると信じていた。 1793年1月21日 朝霧の掛かるパリに5時を告げる鐘が鳴り響き、街から太鼓の音や人馬の立てる音が聞こえてくると王妃は、国王のいる部屋から聞こえる物音で立ち上がった。 国王の部屋では、侍従クレリーが火を起こして部屋を暖めていた。 6時になって、再び扉の開く音がした時、王妃は国王との面会の呼び出しかと思い立ち上がった。 しかし、委員が国王の為にエリザベートの祈祷書を借りに来た音で扉は閉ざされた。 再び、塔内の階段を上がって来る足音が聞こえると、庭から騎兵の立てる物音と走り回る音で王妃は、扉の傍で呼び出される事を待っていた。 しかし、市の役人と憲兵を従えた国民衛兵司令官サンテール将軍は、国王に対して再び面会する事を許さなかった。 国王は『家族にサヨナラを伝えて欲しい』と侍従クレリーに頼んだ。 憲兵に囲まれながら、国王は塔の庭園から家族の住まう天守閣を2度、見上げると馬車に押し込められて、国王の隣りにフェルモン神父が神妙な面持ちで座っていた。 そして、国王を救出する噂が飛び交う二重の人垣を作る通りの中、馬車は革命広場(現コンコルド広場)に向って進んで行った。 革命広場へ向かう間、国王は途切れる事なく、臨終の詩篇を唱え続けていた。 一方、革命広場で処刑を一貫して指揮する人物は、『ムシュ・ド・パリ』と呼ばれたアンリ・サンソン。 サンソン自身は、王党派で国王を熱心に崇拝していた。 しかしサンソン家の職務は、罪人処刑の執行人。 4代目の当主サンソンは、一睡も出来ないまま朝を迎えた。 そして、息子アンリと2人の弟マルタンとシャルル・マーニュと共に家を出た。 8時には、革命広場で待機する筈が群集に阻まれて、9時に到着。 助手が組み立てた処刑台は完成していて、サンソンの最終点検を待つばかりだった。 サンソン一家は、国王救出の噂を願い、国王救出の際には逃げ道を作る決意をしていた。 また、国民衛兵として警護に加わる息子アンリも父の意志に従おうと処刑台の近くで警備に就いていた。 国王を乗せた馬車が現在のメトロ駅ボンヌ・ヌーヴェル近くに差し掛かった時、「国王を救おう!」と大きな声が群集の間から上がった。 声を上げたのは、資産家のジャン・ピエール・バッツ男爵。 ジャン・バッツ男爵 バッツは剣を振りかざしながら、叫び続け、群集が大挙して自分に続いて来る事を願っていた。 彼は国王を土壇場で救い、暫くの間フランスで匿い、その後国外亡命を企てていた。 しきし、彼の声は掻き消されて、危険を感じたバッツ男爵は群集に紛れ込み、その場を離れてロンドンへと向かった。 国王の馬車は、何事もなかったかのように進んで行き、午前10時を過ぎた頃、サンテール将軍率いる1000人以上の騎兵隊が国王の馬車を護衛しながら、革命広場に到着した。 既に革命広場には、2万人の群集が溢れていた。 そして、馬車から2人の憲兵とフィルモン神父、最後に国王が降り立った。 タンプル塔では、王妃が息子に食事を薦めてもシャルルは一切、食事を摂らずにいた。 革命広場に太鼓が鳴り響く中、威厳に満ちた国王が処刑台に向かって歩いて行く。 国王の人柄に触れて国王として、人間として敬愛するサンソンは、ただ茫然と見ている事しか出来なかった。 弟マルタンは、帽子を脱いで国王に挨拶をした。 そして、執行前に両手を後ろで縛らなくてはならない事を説明して、縛ろうとした時、誇りを傷付けられた国王は『余に触らないで欲しい』と、毅然と押し止め拒否した。 もう1人の弟シャルルマーニュは涙声で職務遂行を果たそうと説得した。 フィルモン神父は、『陛下、この最期の侮辱においても、陛下と神とは相通ずる点がございます。 それこそ、神が陛下にお与えになる償いとなるのです。 試練によって、陛下は神に近づき、神は必ず報います』 「好きにするがいい。 苦い杯を最後まで飲み干そう」 国王は両手を後ろに縛られ、シャツの衿を切って広げられると処刑の準備が整えられた。 国王はフィルモン神父に支えられて、ゆっくりと処刑台の階段を一段ずつ上って行くと20ばかりの太鼓の音が鳴り響いた。 そして、国王が壇上に辿り着いて、頭を振り、群集の方を振り返ると太鼓の音が鳴り止んだ。 『人民よ!、私は無実のうちに死ぬ!』 楽隊の指揮官の号令で再び太鼓が打ち鳴らされた。 太鼓の音が国王の声を閉ざした為に国王は傍らの人々に言った。 『私は、私の死を作り出した者を許す。 私の血が2度とフランスに落ちる事のないように神に祈りたい』 午前10時20分 国王の体が処刑台に横たえられた後、サンソンの執行によって、ギロチンの冷たい刃が落とされた。 ルイ16世の処刑 助手は、かつてルイ15世の騎馬像があった広場東方面を向いて、切り落とされた国王の首を高々と掲げた。 かつて、革命前に国王は《人道的な処刑具》として、ギロチンの導入を検討させて『苦痛を与えないように刃の角度を斜めにするように』と、ギロチン改良の助言を行っていた。 国王の首が切り落とされると、民衆はハンカチ、紙、その他、なんであろうと王の血を浸した。 そして、国王の血しぶきが群集に降り掛かると国王の血で染まった髪を買い求める者もいたという。 作家エリック・ルナブールは、『血しぶきの中、1人の男が断頭台に上がり、滴った国王の血を更に民衆に降り注いだ』と表現をしている。 サンソン家の回顧録には、市民の1人が処刑台によじ登って、むき出しの腕を血に浸し、『同士よ!我々はルイ・カペーの血が我々の頭に降り掛かるであろうと脅かされた。 ならば、降られば降れ! カペーこそ、嫌という程、我々の血でその手を洗って来た。 共和派よ、王の血は我々に祝福をもたらすであろう」と記されている。 1800年代後半、イタリアの家族が国王の血痕の付着したハンカチを所有。 「1月21日、王の処刑後、Maximilien Bourdaloueがハンカチをその血に浸した」という文章が刻まれている。 国王ルイ16世の遺体は、直ちにマドレーヌ寺院内にある共同墓地に運ばれて、深さ4m/長さ2mの穴に両足の間に頭が置かれて埋葬された。 午前10時半、大砲が一斉に撃たれる音が街中に鳴り響く。 タンプル塔の衛兵隊が太鼓を打ちながら『共和制万歳!と叫んだ。 王妃は泣きながら寝台に倒れて、王女マリー・テレーズは悲鳴を上げ、幼いルイ・シャルルは泣き出した。 暫くすると王妃は立ち上がり、息子の前に跪ずき『ルイ17世陛下』と即位を讃えた。 刑の執行人サンソンは、苦悩の末、深夜にカトリックの司祭を訪ねて、贖罪の儀式を受けた。 革命政府によって迫害されたカトリックの聖職者は、反革命の犯罪者でミサを受けたサンソンも同罪になった。 しかし、サンソンはナポレオンがカトリック信仰を復活させるまで、毎年、この司祭のミサを受けた。 そしてサンソン家では、息子アンリ(5代目当主)の代になっても国王への祈りは引き継がれた。 国王が処刑された同日、弁護人を務めたマルゼルブの邸前には、その献身的な行為を讃える人々のデモが危険をかえりみずに行われた。 1794年4月22日 自ら国王の弁護をかって出て、出来る限りの事をしたマルゼルブは、亡命貴族と陰謀を企てたという嫌疑をかけられて72歳で処刑された。 マルゼルブが国王の弁護をかって出た時、「貴殿は余の命を救えないばかりか、貴殿自身の命を危険に晒す事になるであろう」と、国王が語った通りになった。 悲劇は彼だけで終わらず、家族も処刑された。 長女アントワネット・テレーズ・マルグリット。 その娘アリーヌ・テレーズ。 その夫シャトーブリアン(作家シャトーブリアンの兄)と共に反革命文書を隠匿した罪状によるもの。 マルゼルブは、家族の処刑を見届けさせられてから、一番最後に処刑されるという残虐なものであった。 マルゼルブ一族の逮捕時、納得のいかない民衆達が護送車の後を追いかける程、その高潔な人柄が惜しまれた。 マルゼルブのかつての主君に対する義侠心と命を懸けて、自ら弁護人を引き受けた、その献身的行為を称えた「マルゼルブ通り」「マルゼルブ駅」が誕生した。 マルゼルブ通りは、マドレーヌ寺院から北西にサントーギュスタン教会を経て、メトロ3号線マルゼルブ駅まで延びている大きな通り。 1815年1月21日 ルイ16世の処刑から22年後、遺体が発掘されてサン・ドニ大聖堂に改葬された。 ルイ16世の遺言書は、処刑直前にタンプル塔で書かれた物が最も有名で、現在はフランス歴史博物館にマリーアントワネットの遺書と共に展示されている。 タンプル時に書かれた遺言書とは別に『ヴァレンヌ逃亡』時に執筆した、ルイ16世直筆の遺言書については、写しはあったものの、原本はフランス革命以降、その行方が分からなくなっていた。 しかし、長年の年月を経てようやく、その直筆の『遺言書』の原本が2009年にアメリカで発見された。 発見したフランスの研究者らは、『歴史の鼓動を伝える第1級の史料』としている。 このヴァレンヌ逃亡時に書かれた遺言書は、16枚に及んでいる。 遺言書には、『全てのフランス人に告ぐ』と題されており、逃亡の理由を説明すると共に革命派を厳しく批判すると共に国民に向け、『(革命派の)誤った友人たちの嘘を信用してはならない。 国王の元に戻りなさい。 王は常に貴方の父であり、最良の友人である』と呼び掛け、自らが目指した立憲君主制の正しさを説いている。 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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